第5話 第2章 革命の勃発-3『1789年』


6 【国王の抵抗】

ルイ16世の国民議会への同意は表面的なものであった。26日には地方の軍隊のパリ、ベルサイユ近辺への集結命令(遅くとも7月13日までに)を出している。

議会は緊張した。集結した軍隊の圧力を感じるようになった議会は、国王に要請した。軍隊の介入は事態を悪化させ、体制の転覆にもなりかねない。民衆を激昂させないうちに軍隊を首都周辺から撤退してくれるように。


国王からの返答は素っ気ないもであった。軍隊の駐屯は宮廷と議員たちを守るためのもので、撤退はさせる気はないと。国王は柔軟派であったネッケルを解任し、強硬派のプルトゥイュに代え、軍隊の司令官には生粋の軍人プロイ元帥を任命した。強硬派のプルトゥイュにもはっきりした行動日程があったわけでもなかった。


7 【民衆の蜂起】

ネッケルの解任をめぐって、パレ・ロワイヤルの中庭では民衆の議論が始まる。ネッケルの解任は国民の攻撃の第一弾とし、次はサン・パルテルミの虐殺をたくらんでいるのだと煽る者があった。この虐殺事件とは、16世紀後半の宗教戦争で生じた事件である。

デモ隊が街路に繰り出した。夜になってドイツ傭兵隊と群衆がついに衝突した。死者は1名だけだったが、愛国的市民の虐殺という情報はパリの緊張を張りつめさせるには十分であった。深夜、市門(ここで入市税が取り立てられていた)が次々と焼払われた。別の群衆は武装のための武器を求めて武器商店を襲った。裕福な市民層は騒乱状態の市内の治安を守るために市民軍結成を決定した。バスチーユ攻略はこのような伏線の上になされたのである。


首都に集結した軍隊は撤退し、約束した改革がなされたら問題はなかった。ところがルイ16世は封建的特権の廃止にも、人権宣言にも裁可を与えようとはしなかった。それどころか、一旦撤退させた軍隊を王宮防衛の名目で再び呼び寄せる動きに出た。啓蒙専制的な改革には賛成であるが、イギリスのような立憲君主制は、彼の到底認めるところのものではなかった。議会が国王を抑えて大きな顔をするのは許せなかったのである。


ダントンやマラーなどの急進ジャーナリストは、宮廷を市民の監視下におくために、ベルサイユからパリに移すことを主張していた。議会では主導権を握りつつあったラファイエットたちが国王との妥協の道を探っていたが、軍隊の呼び寄せの動きを知ってついに、宮廷のパリ移転を考え始めた。しかし、具体的な手段があったわけではない。事態を動かしたのは民衆であった。


8 【革命の勃発】(1789年7月14日)

自衛と秩序維持のため、パリ市民は市民軍(国民衛兵)の編成を始めたが、いかんせん武器が足りない、セーヌの左岸アンヴァリッドに廃兵院がある、そこに市民たちが集結して銃の引き渡しを求めた。市民代表と守備隊のやり取りは埒があかない、そこで中庭から建物内に乱入した群衆が銃を奪うことに成功。しかし、弾薬が足りない。群衆はバスチーユを目指した。


アンヴァリッドで小銃が押収されている頃、実はすでに、市民代表はバスチーユに赴いて、司令官ド・ローネーに武器弾薬の引き渡しを求めていた。バスチューユは、もともと中世にパリの東方を防衛するための要塞として建てられた。高さ30メートルの8つの塔を備えていた。その後、パリは広がり、要塞の東には下町が形成され、家具職人をはじめとした職人や労働者が住み着いた。


ルイ13世のころから、牢獄としても使われるようになり、王政を批判する人々にとっては圧政の象徴になっていた。アンヴァリッドからの群衆も合流しその数は増した。司令部に通じる跳ね橋が落とされ、群衆は中庭になだれ込む。スイス傭兵の守備隊は塔の上から狙い定めて容赦がなかった。激しい銃撃戦。バスチーユを群衆が制圧する。群衆側の犠牲者は100人近い死者を出した。バスチーユ司令官は逮捕され、市庁舎に連行される途中首をはねられた。さらに市長のフレッセルもこの日の対応を「裏切り行為」として、射殺され首をはねられた。彼らの首を槍の先に高く掲げて市庁舎前の広場を練り歩く彩色版画が残されている。


後に「バブーフの陰謀」として知られる、地方から出て来ていた若者バブーフ*が、地元の妻あての手紙に、7月の市庁舎前の様子をこの様に書き送っている。

「それにしても、この民衆の歓喜する様子に、僕は気分が悪くなった。民衆が正義の裁きをするのは、よくわかる。罪ある者をなくすことによって、この裁きが満たされるのなら、僕はそれを認めよう。けれでも、今日のこの裁きは、残酷以外のなにものでもないのではなかろうか。(中略・・)わが妻よ、すべてにはまだおそろしい続きがあるだろう。僕らはまだ、ことのはじめに立ち会っているに過ぎない」


ベルサイユの対応は、国民議会は新しい憲法をめぐって熱い議論を重ねていた。パリ市民が蜂起し、バスチーユが攻略された情報は夕刻には入ったが、まだ断片的であった。なお議事を続ける議会のもとに、市長フッレッセルからのメッセージが届いた。

「パリ市内はひどい状態だが、市民軍が秩序を回復するだろう」と。


宮廷も攻撃を全然考慮し無かったわけではなかった。深夜にパリ攻撃の計画も立てたが様子をみた。忠臣貴族のヘリアンク-ルが馳せつけて、王の眠りを破る。下手に動くとあぶないと直言する。目がすっかり覚めていない王は言う。

「なんだって、それじゃー反乱なのか」

「陛下、革命でございます」


抗すべくもない歴史の前に、王は議会との和解しかなかった。翌15日、国民議会議場に自ら出向いた。

「わが臣民の忠誠に期待して、朕は軍隊がパリとベルサイユから撤退することを命じた。この措置がとられたことを諸君が、首都パリに知らせることを許可し、またそうすることを期待する」まわりくどいが、国王が議会にお願いをしているのである。議員たちは歓喜した。午後、パリにこの情報は伝わった。市庁舎では「国民衛兵」と改称された市民軍の司令官にラファイエットを選び、フッセルのあとの新市長に天文学者のバイイがついて、市政革命が宣言された。


バスチーユではいち早い取り壊しがはじまる。17日、国王はパリ市庁舎に向かう。得意満面のラファイエットが先導する。武装した群衆が歓呼して迎える。国王が国民衛兵の三色記章をつけてバルコニーに現れた。国王の敗北。目先のきく貴族たちの間から、早くも亡命の動きが始まる。武装した国民と国王との和解。国民議会の議員たちは、そのように信じたかったに違いない。

バスチーユの波紋は地方都市にも伝わり、パリにならって市政改革がおこなわれ、国民衛兵組織が形成されていった。


人物: フランソワ・ノエル・バブーフ(1760~ 97年)

貧しい農家の長男として生まれた。17歳の頃、土地台帳管理の職を得、その後土地台帳管理人として自立した。この仕事を通じて彼は、領主権の不正を目の当たりにして、土地私有制の弊害を痛感、私有財産の否定、完全平等主義のコミュニズムに近い考えに至る。時の総裁政府の転覆を計るが、事前にもれて処刑される。37歳であった。


人物:ジャン・シルヴァン・バイイ(1736~93年)

天文学者(1763年にフランス科学アカデミーの会員)。テニスコートの誓いの議長を務めた。シャン・ド・マルスの虐殺事件でデモを鎮圧するために国民軍に発砲を命じたため人気を失い、91年11月に解任され、ナントに隠遁した。93年末に逮捕され、反革命分子として処刑された。

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