第4話 第2章 革命の勃発ー2『三部会の招集』
4 【三部会の招聘】
三部会とは、貴族、聖職者、平民の身分別の会議であり、1614年以来170年余り開かれていないのである。フランス社会はこれらの3つの身分によって構成されていた。
第一身分は聖職者、「祈る人」である。彼らは個人的には財産を持つのではなかったが、教会は大きな所領を持っていた。また、平民に対して十分の一税を課す権利を持っていた。
第二身分が貴族、「戦う人」である。ブルボン王朝に於いて宮廷政治の仕組みが出来上がってゆくにつれ、彼らは政治家や官僚という色彩が強くなる。また、所領を持ち、年貢、地代、小作料を経済的基盤とし、免税特権を享受することでは共通であった。
第三身分が平民である。「はたらく人」である。働く人は多様であった。一番上には大商人や金融家、実業家などの資産家、ついで、親方や町の商人たち、そして彼らの下で働く職人や店員、見習い、さらにその下には定職のない日銭稼ぎ、農村でも大規模な農場を経営する富農、自作地を持つ小農、そして土地を持たない農業労働者や小作農、奉公人や従者と多様に存在していた。
これらの3つの身分が明確に別れていたわけではない。第一身分でも、貴族家系に属する上級聖職者(司教)、平民出身である下級聖職者(司祭)では雲泥の差があった。貴族身分でも宮廷に関与できる華麗な身分のもの、地方名士で止まる者、零落していくものとこれまた多様であった。
第三身分の内でも巨額の私財を投じて官職を買って貴族の称号を得る者もいた。かれら新貴族は官職用の長衣を着ていたので「法服貴族」と呼ばれた。また、斜陽となった貴族から所領を購入し、地主となる者もあった。また、第三身分にも入れて貰えないような細民といった存在もあった。当時の定義では、市民とは一定期間、同一の町に家を持って居住して、税を納めて市政に貢献している男性のことであった。ずっと住んでいたとしても、使用人や労働者、下働きの職人は市民とは認められなかった。
このほかに、特別な能力や才能を持つ者の社会的上昇回路として、作家、文筆家として言論や出版の世界で売り出すとか、弁護士として法曹界で活躍する道があった。彼らは新しい時代のエリートとしてサロンで持てはやされた。貴族とブルジョア(新興資産家)が交じり合うような形で、自由主義的な時代の雰囲気が形成されていく。
5 【三部会から憲法制定会議へ】
89年1月、代議員の選出に関する規定が発表された、貴族と聖職者は行政管区ごとの集まりを持って選出。第三身分の選挙権は25歳以上の男子で納税台帳に登録されている者のみに認められた。4月末、選出された各身分の代議員はベルサイユに集結した。しかし、開催当日の5月5日になっても肝心なことが合意されていなかった。それは審議にあたっての議決方法であった。
貴族側は前年秋、高等法院決定をもって、三身分同数の議員数と身分別の議決を唱えた。第三身分からの高等法院の支持は、これをもって瓦解した。聖職者会議は貴族の意見に同調した。身分別にすれば、特権身分は2対1で第三身分を抑えられるのである。当然、第三身分の受け入れられるところではなかった。
ブリエンヌの後任のネッケルは、議決方式を未定のまま、議員数だけ第三身分を倍にする折衷案でお茶を濁していたのである。第三身分は財政負担の平等と権利の平等を主張して身分別でない、統一議会方式の投票を強く主張した。
厳しい意見対立の中、一人の人物のパンフレットが大きな反響を巻き起こした。それは『第三身分とはなにか』と題されたもので、「第三身分とはすべてだ。いままではなんであったのか。なにものでもなかった。何を求めているのか。なにものかになることを」と書かれてあった。このパンフはいちやくシェイエス*を有名にし、彼はパリの選挙区から第三身分代表として選出された。
5月5日、このような中、国王みずからの主宰のもと三部会は開会した。第一身分代表議員291名、第二身分285名、第三身分578名。開会数日前のセレモニーから本会議にしても、第三身分は差別されていた。広い議場の中でも、演壇から遠く離れた後方、国王の声も良く聞き取れなかった。どの演説も「財政再建は必要」とは言うが、どうやって審議し議決するのか。第三身分が要求している憲法制定がどうなるのか、何も言及はなかった。
まず、議員たちの資格認定作業をめぐって、身分別ではない全大会の作業を要求して早くも紛糾が始まった。こう着状態が1カ月余り続いた。先行き不透明なこの期間を利用して、面識のなかった状態から、一定のまとまりとリーダーシップが見えてきた。「プルトン・クラブ」がそれである。そこにシェイエスやミラボーらも参加して指導力を発揮し始めた。ここで強硬意見を持って事態を切り開いたのはシェイエスであった。第三身分の資格認定作業に、他の身分に合流を呼びかけたのである。19人の第一身分代表が合流した。勢いを得た第三身分は自分たちの会議を『国民議会』と名乗ることを宣言したのである。
貴族代表の会議では対決派が多数を占めたが、合流を主張するオルレアン公*に80名が賛同を示したのである。聖職者たちの会議では僅差ではあったが、第三身分への合流が議決された。保守派は慌てて、国王親臨の会議を開き、第三身分の動きを否認するよう手筈を整えた。改装という姑息な口実のもと、第三身分の会議場を閉鎖したのである。第三身分の議員たちは、憲法が制定されるまでは決して国民議会を解散しないと誓い合った。これが有名な『テニスコート』の誓いである。
6月23日国王親臨の会議が、全議員を集めて行われた。国王はここで財政負担の平等、個人の自由、地方への権限移譲、司法制度の再編などを約束し、改革はゆっくりとやろうと演説した。しかしこうも付け加えた。「国民議会を名乗る議員たちの動きは承認できない」と、そうして国王は退出し、第一身分、第二身分の保守派がこれに続いた。1年前ならこの改革案は多くを満足させられたのかもしれない。しかし状況はそんなところにはなかった。
退室を促された第三身分の代表たちは居座った。「我々は人民の意思によって、ここにいるのだ。銃剣によるのでないかぎり、この場を決してはなれない」と、貴族でありながら第三身分から立候補した破格の人生を歩んで来たミラボー*は訴えた。
翌24日第三身分に合流する第一身分代表は171人になった。第二身分からもオルレアン公をはじめ47人が合流した。解散させるには軍隊の出動しかない。27日、国王は第三身分への合流を貴族、聖職者に命じた。7月9日国民議会は『憲法制定国民議会』と呼称を変更した。立憲君主制に向かって静かに流れていくように見えた。
人物:オノーレ・ミラボー(1749~ 91年)
侯爵の次男として生まれる。大学で法学を学ぶ。革命初期をリードした人物。革命前から学識と放蕩者としての評判で、すでに庶民の間でも有名であった。演説の才能は抜きんでていた。雄弁と、その開放的な庶民性から国民に絶大な人気があったものの、絶頂期に突如として病死した。その葬列は盛大なものであった。思想的には共和政には反対で、立憲君主制の立場であった。死後にルイ16世と交わした書簡と多額の賄賂の存在が暴露されて、名声は地に落ちることになった。王室から金品をせしめても彼は王室のいいなりになるようなことはなかった。歴史家ミシュレは「彼は裏切ったのではない、堕ちたのだ」と書いている。ミラボーは人民の議会と王室との間を取り持とうとしたのである。彼の死によって、王室は立憲議会との太いパイプを失った。
人物:エマニュエル=ジョゼフ・シエイエス(1748~1836年)
第三身分出身。徴税人の子として生まれる。父親の勧めで聖職者となる。革命が激化すると次第に保守的となり、表舞台からは消えた。ロベスピエール失脚後に復活して総裁政府の一員となり、ナポレオンと結んでブリューメル18日のクーデタを行い、統領政府では第一統領ナポレオンに次いで第二統領となった。ナポレオン没落に伴って亡命したが、七月革命で帰国。革命の指導者たちはみな若くして亡くなったが、かれは88歳まで生きた。「ミラボーとともに革命を生み、ナポレオンとともに革命を葬った」と言われる。
人物:オルレアン公ルイ・フィリップ2世(1747~ 93年)
ブルボン家の分家の一つであるオルレアン家は、王位継承権を持つ有数の富豪貴族であった。フィリップはルイ14世の弟の直系の孫にあたり、イギリス流の立憲王政に賛同していて、ルイ16世にかわって王位につくことを考えていたとされる。私生活は放蕩かつ無節操であったと言われている。民衆に開放した自分の宮殿パレ・ロワイヤルは歓楽街として使われ、政治的な危険分子はもちろん、娼婦の溜まり場にもなった。立憲議会ではミラボーと結んだが、共和政が宣言されると、元王位継承権を持った彼はうさんくさい目で見られ、それを打ち消そうと国民公会でも最左翼に位置したり、ルイ16世の処刑にも賛成票を投じた。しかし共和制転覆の嫌疑を受けて告発され、革命広場の断頭台で処刑された。46才であった。
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