八章 もろともに あはれと思へ山桜 3—2
春は手の内の卵の先生を見つめた。
「センセは、どないしはったん? 体がかじられて、のうなってしもたんどす」
艶珠さまは答えず、春をつかんだまま、空に飛びあがる。眼下にひろがる桜の森を見やる。
つられて、春もながめた。
ぐんぐん高くなるにつれ、その森が見渡すかぎり、どこまでも続いていることがわかった。
「おまえが春の女神の名前を持ってるから、こういう世界になったんだろうな。
もともとは、この世界、死の瞬間の昏迷の想念がベースになった世界だったみたいだ。組成が闇の国になじんだ今だから読みとれるんだが。
無意識下の想念の世界である闇の国と似たところもある。だが、生と死の概念に阻まれて、一つになることはできない世界だった。
ここに存在することができたのは、死者と死にゆく者のみ。何も生まれない、むなしい世界だ」
それで、この世界の住人は死人をあやつることができたのだ。先生が時間魔法にしては変だと言っていたが、あれは時間魔法ではなかったのである。
死のせつなの一瞬の永遠こそが、この世界のありかたそのものだった。死にひんした瞬間、とりつかれていた人々は、完全にこの世界の支配下となったのだ。
艶珠さまは続ける。
「そんな世界だから、ほんとなら、どこの精神世界とも交わらず、ひっそりと存在するだけだった。だが、どこかの巫子が、ぐうぜん、この世界に流してしまったんだろう。春、おまえ、イザナギとイザナミの神話を知っているか?」
春はうなずいた。
艶珠さまも、うなずきかえす。
「イザナギとイザナミは、アマテラスやスサノオを生んだ親だ。この二人が最初に生んだ神は、骨のない蛭子だった。二人は蛭子を川へ流してすてたんだ。
古代人の考えた寓話だね。蛭子というのは、水子のことなんじゃないかな。古代人は思いが強い。巫子の素質を持つ者が多かった。そんな巫子のなかの誰かが子どもを死産した。自分の子どもが、どこか別の世界で生き続けることを願ったんだ。
結果、この世界のゲートがひらき、子どもの死体が、ここに落とされた。これが、この世界のマテリアルハーフになったんだ。
時とともに、そういう子どもの送られる墓場のような世界になった。でも、ヤツらは、どこまで行っても死体だ。ヤツらの願いは、たった一つ。なんとかして生き返りたかった。
そのためには、この世界が変わるしかなかった。ここは死者の世界。死者を死の瞬間にとどめることはできるが、生き返らせる力はない。世界の組成が変わりでもしないかぎり——」
そう言って、艶珠さまは、いまいましそうに舌打ちする。
「私たちは、うまくヤツらに乗せられたのかもしれないな。ヤツらは領土の増減なんて、どうでもよかったんだ。この世界を変えてくれるほどの、強い力を持つ巫子が欲しかった。その巫子に恋をして、母親になってもらいたかった。それだけだ」
「ほなら、うちをあやつろうとしたんも……」
「おまえに恋をしてほしかったんだろう。相手は川田でも兄上でも、誰でもよかった。
とにかく急ごう。この世界は再生したばかりの変動期だ。うかうかすると、私も分解されて、とりこまれる。長居はできない。
いずれ、定着するだろう。そのときには、闇の国からでも、ちょくせつ行き来できるようになる。以前の北海の部分が、かけ橋になるからな。今は、おまえが入ってきたときのゲートを使おうか」
「艶珠さま。センセは?」
「ああ。兄上ね」
艶珠さまは春の手のなかの先生を、自分の子どもであるかのように愛しげにながめる。そして、自分で当惑していた。
「ほら、もう影響が出てきた。ここには私より、テミス伯母上をつれてくるべきだ。そしたら、少しは母親らしくなる。
もっとも、私の見たところ、あれでけっこう、伯母上は父上に惚れこんでるね。それを認めるのが悔しいから、父上にそっくりな兄上に、きつくあたってしまうんだ。嫌ってるわけじゃない。だって、兄上が小さいころ、死にかけたときに、ご自分の血を半分も輸血したらしいし」
きっと、羽をもがれたときだろう。
「そのこと、センセ、知ってはるんどす?」
「知らないんじゃないの。私は父上から聞いたから」
教えてあげてくれればよかったのに、と思うが、もちろん、そんなことは言えない。
飛んでいくと、白くかすみのかかったような空に、ゲートの穴があいていた。以前より大きくなって、形も明瞭になっている。
「おまえが創りかえたから、これからは、おまえの物質世界が、この世界のメインマテリアルだ。ゲートも安定するさ。それから、春」
「へえ」
「ゲートをぬけたら寸刻を争うから、今のうちに言っておく。兄上を救ってくれて、ありがとう」
「艶珠さま……」
感動していると、艶珠さまは、ぺろりと舌をだした。
「バーカ。いつもの私なら、こんなことは言わないんだよ。この世界のせいで、今だけ、ちょっと気が変になってるだけさ」
でも、そう言いつつ、先生を嫌う人には入れない世界へ、艶珠さまは入ってきている。冷たく見せているそぶりより、内心はずっと先生を心配していたはずだ。
春は、そう思っておくことにした。
「センセは助かるんどす?」
「まあ、最悪の事態はさけられた。おまえが抱いてるのは、兄上の魂だ。闇の民にとって、もっとも大切なもの。それが守られたから、悪くても、兄上は闇の国で生まれ変わることができる。そのときは前世の記憶は消えているし、生まれてくるまでに何千年かかるか、わからないけどね」
「……うち、もう、会えへんのん?」
「転生をさけるなら、兄上には新しい肉体が必要だ。前のは全部、食われてしまった。
もともと兄上は物質の要素が希薄だったから、この世界にとり残されたとき、賭けに出たんだ。物質の肉体を守る努力をすて、大切な精神性のほうだけを、全力の魔法で守った。
そうでなければ、北海の組成をガードに使っても、そんなふうに魂が無傷で残りはしなかっただろう。それも危機一髪だったみたいだけど」
ゲートが目前にせまっていた。
桜の木のかげから、子どもたちが手をふっている。
艶珠さまは春の手を、ぎゅッとにぎりしめた。
「兄上の魂をクローンの体に移植してみる。うまくいくかどうかは、五分五分かな。兄上が今の自分として、もう一度、生きたいと思っていてくれれば……だから、おまえも祈ってて」
直後、春たちはゲートをくぐった。
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