八章 もろともに あはれと思へ山桜 3—1

 3



 先生の両眼から血の涙がもりあがり、頰にこぼれおちる。


 そのとき、先生のかけていた魔法が解けた。

 先生の心の闇が作りだしていた迷宮が消え、春は先生とともに、空中になげだされた。

 先生を抱いて落下していたと言うべきか。


 先生は意識を失っていた。長いあいだ魔法を使い続けて、疲労しきっているのだろう。

 抱きしめている感触はあるのに、先生の体は霊魂のように透きとおっている。体の中心に、光に守られた玉みたいなものがある。


 しかし、長々と見つめていたわけではない。


 先生を守っていた氷の城が消えたとたん、二人のまわりに白カビが大群でおそってきたからだ。


 もはや、それは白くなかった。

 氷の城の最後の一画がくずれ、北海の組成が完全に、この世界に飲まれてしまったのだ。

 骨のように白かったものが、血を吸ったように赤く染まり、ひっつきあって形をとり始めた。こぶしほどの大きさのヒルのような肉塊だ。


 それが百も二百も、みるみる群れてきて、より集まってくる。

 これが、この世界のゆいいつの生き物のようだ。小さな赤い物体は、ゲートをくぐる前に見た、あの赤子を思いだす。


 生まれる前に死んでいた子ども。

 きっと、自分たちに、とても近いものだから、とりつきやすかったのだろう。


 それは何か、ひじょうに強い衝動につき動かされているようだった。群れになっておそってきては、先生の体をかじろうとする。

 自分たちとは異質な先生を同化しようとしているのか、それとも別の意思があるのか、びっしりと体の表面に、ひっついてくる。


 けんめいに春は先生を守って、それらを払いおとした。が、全部は落としきれない。着物は虫食いだらけになり、長い髪や指さきが、かじりとられていく。

 そのたびに、先生の体が薄く透きとおっていく。


「やめて! うちのセンセをかじらんといて!」


 けれど、赤いものは増える一方だ。


 先生の体は、みるまに手足のさきから、美しい顔までかじられていった。骨があらわになり、その骨まで、むさぼり食われていく。


(いやや。せっかく見つけたのに。いっしょになるって約束したのに。うち、まだ、センセといっぺんも接吻してへんのよ)


 あるのは夢のなかでの、おぼろな感触だけ。


 でも、それも失われてしまった。

 先生の肉体は、もう……。


(センセ……)


 きれいで、神秘的で、優しくて、ときどき、ちょっぴりイジワルで、ときには恐ろしい魔性をかいまみせることもある。


 けれど、ほんとは、とても深い孤独をかかえた先生。


「……うち、ほんまに、なんで、こないセンセのこと、好きなんやろ」


 手の内に残る先生のカケラを、ぎゅっと抱きしめたとき、春はあふれる思いを止めることができなくなった。


「センセが……センセが好き!」


 愛してる。愛してる。愛してる。愛してる。愛してる……。


 枯れることのない泉のように思いがあふれだし、春と先生を満たして包みこむ。とてもあたたかい、幸せな感覚のなかをただよう。


 青い光のなかで眠る先生。

 卵のカラに守られた、小さな、美しいもの。


(これがセンセの、ほんまの姿……)


 先生は、この姿を恥じていたのだろうか?

 蛇の子で、みにくいから?

 一族の誰とも似ていなくて、うとまれるから……。


(アホやなぁ。センセ。こない綺麗な竜やのに)


 竜の岩山で見た西洋の竜は、春には奇怪な怪物にしか見えなかった。あんなふうに生まれなかったからといって、どうして恥じることがあるだろう?


 背中に羽はあるけれど、これはどう見ても、神聖な竜だ。羽のある、小さなみずちである。


 あんな、ずんぐりむっくりした怪物より、ずっと気高く美しい。


(センセ、やっぱりイケズや。うちのこと、からかって。こんなん、ちいとも怖くありまへんえ)


 長い長いあいだ抱きしめていた。


 愛しい人は、もう二度と目をさまさないのかもしれない。それなら、このまま、ずっと二人で、いっしょにいたい。


 どこからか、子どもの笑い声が聞こえる。しきりに、ありがとうと言っている。


(誰? センセ?)


 目をあけた春は驚愕のあまり声も出なかった。


 あたりの景色が一変している。

 白いカビや赤いヒルなど、どこにも見えない。


 見渡すかぎり、満開の桜だ。

 雪のようにも雲のようにも見える。


 夢うつつの花の舞。


 桜の森のなか、小狩衣こかりぎぬ姿の稚児が、あっちからもこっちからも顔を出して、のぞいている。

 みんな、なんとなく先生に似ていた。



 ——ありがとう。ぼくたち、生まれかわることができたよ。



「うちに言うとるん?」


 子どもたちは嬉しそうにジャレあって、かけていく。


 ようやく、春は気づいた。

 それが、さきほどまで、赤いヒルにすぎなかったものたちだと。


「なんで……?」


 ぼうぜんとする春の手を、そのとき、乱暴につかむ者があった。


「こういう世界って気恥ずかしいんだけどな。悪魔の私たちとしては」


 艶珠さまだ。悪いものを食べて胸やけしたような顔をしている。


「あれ? こっちゃの世界には入ってこられへんのとちゃいます?」


「ああ。さっきまではね。世界の組成が変わったから、入ってこられるようになった。ビックリしたさ。見張ってたら、急に組成が変化し始めるんだからな。あわてて根を切らなくてよかった。

 ああッ、でも、体中がムズムズする! おまえ、よくも、こんな恥ずかしげもないマネができるよね。母性愛とか、無償の愛とか、私たちが苦手だって、わかってるの?」


「……へえ?」


 首をかしげる春を、艶珠さまは、まじまじと見つめる。


「まあね。ここまで思われれば、兄上も男冥利につきるさ。悔しいけど、私にはマネできない。

 スピリチュアルワールドっていうのは、人間の思いが結晶化した世界だと言ったろう?

 だからさぁ。おまえが、あんまり強く念じたから、この世界の根本的な組成が変わってしまったんだよ。もちろん、ただの人間にできることじゃない。おまえは精神世界に影響を与えやすい、巫子の素質を持っているんだろう。だから、おまえがキーマンだったんだ」


 艶珠さまは湯につかりすぎて、のぼせたみたいに、片手で顔の前をあおいだ。


「ほんと、見てるほうが恥ずかしいよ。どこ見ても同じことが刻んであるんだもんな」

「なんて、書いてあるんどす?」


 艶珠さまは、キッと春をにらむ。

 こんな恥ずかしいことを私に言わせるなよとでもいうように。


「兄上のことが、好き好き好き好き好きって!」

「ええッ?」



「おまえはね。兄上への愛情で、この世界をいっぱいにしちゃったの!」

「ええッ! そんなん、見えはるんどす?」

「見えるよ!」

「ほなら、どこからどこまでどすえ?」


 艶珠さまは身もふたもなく言いきった。


「全部!」

「全部?」


「そう。この世界の端から端まで、ぜーんぶ! みっちり兄上への愛情がつまってるの。

 あのとき、北海とこの世界は完全に一体化していた。だから、この世界のすべての組成がぬりかえられてしまったんだ。

 兄上を嫌う者には入ることもできない世界だよ。じっさい、ここにいると、私も変な気持ちになるから、早く外に出よう。それに、兄上も早く、なんとかしないと」


    

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