八章 もろともに あはれと思へ山桜 2—3
父と母の夫婦仲がよくないことは、子どもながらに知っていた。
長じてみれば、むしろ、たがいに政略結婚とわりきっているからこそ、長続きしているのだとも思ったが、幼いプロメテウスに理解できるはずもない。
父はときおり母のもとへ来ては、揺りかごの中身に、いちべつをくれるだけの人だった。
二人とも初めての王子が順調に育ちさえすれば、よかったのだろう。
とっくに、そう気づいていてもよかったのに、なまじ化身するようになって、母に可愛がられたものだから、父にも喜ばれるのではないかと考えたのは、浅はかだった。
めずらしくも母のもとへ訪れた父の前へあいさつに出て、プロメテウスはその報いを受けることになった。
「父上。いらっしゃいまし。ぼく、人型になれるようになったんですよ」
褒めてもらいたかったのに、父は無言のまま、プロメテウスを見つめていた。その目のなかに、一瞬、残忍なきらめきがよぎる。
ことによると、父は本気で、少女姿のプロメテウスを可愛いと思ったのかもしれない。父は可愛い、愛しいと思うものをイジメないではいられない、蛇神の倒錯したさがの持ちぬしだから。
だからこそ、蛇神は他の種族から嫌われ、さげすまれる。黒竜王の——竜神の子として生まれた父には、その風当たりは、なおさら、きつかっただろう。
父には自らに流れる蛇神の血がコンプレックスだったのかもしれない。それが、そのとき、そんな形で表れたのだろうか?
「さすがに、そなたの子じゃ。術をおぼえるのも早いもの。わらわの幼きころに、よう似ておる」と、母も嬉しげに父を出迎えた。
そのとき、父はとても不吉な笑いかたをした。片手でプロメテウスをひきよせ、ぐっと肩を押さえた。
「いや、私の子だ。私の子ども時分に生き写しだ。これさえなければな」
父の手が背中の竜の羽にかかり、次の瞬間、プロメテウスはひき裂かれる激痛に、悲鳴をあげて失神した。
父の手で片羽がひきちぎられたのだ。
そのあと数日、プロメテウスは生死のさかいをさまよったらしい。
プロメテウスが死にかけているあいだに、父と母が、どう決着をつけたのかは知らない。言い争ったのか、それとも存外、すんなり話がまとまったのか。
ともかく、次にプロメテウスが気がついたときには、そこはもう王城ではなかった。母の里の竜城だった。
「強い子じゃ。ようがんばったな。いずれ、羽も、もとに戻るそうじゃ。そなたは魔力高き子ゆえ」
両手で自分の手をにぎっていた母のおもてを、おぼろにおぼえている。
傷が癒えるまでに数か月。新しい羽が生えてくるまでには数年を要した。
やがて、そのあいだに、エピメテウスが生まれた。
エピメテウスは卵からではなく、人間のように母の腹から生まれてきた。
その姿を見て、母はひじょうに喜んだらしい。エピメテウスは化身をとらなくても、生まれつき人型をしていた。魔力が弱く、王子になれなかったことも、いっそ哀れで愛おしいようだった。
プロメテウスが寝ついているうちに、母の寵愛は、すっかり弟に移っていた。
そうなって初めて、母はきれいな人形を愛でる気持ちで、ほんのいっとき、プロメテウスをオモチャにしていたにすぎなかったのだと思い知った。
赤ん坊のエピメテウスのおしめを、なれない手つきでかえ、乳をふくませる母を、いつも物陰から見つめていた。
もしかしたら、見つけてくれるのではないかと思って。
プロメテウスを見つけて、手招きしてくれるのではないかと期待して。
以前のように、白い手で頭をなでてくれるのではないかと。
だが、たいがいは気づいてももらえないか、見つけれても邪険にされるかだった。
「忙しいのだから、あっちへお行き。なんじゃ? その目は。ほんに、そなたは蛇の子よのう。陰気くさいのは、わらわは好かん」
でも、母上。ぼくだって、母上の子どもなのに。
ぼくが一千年待って、やっと与えられたものを、弟は生まれながらに手に入れた。ぼくのものだったのに、あいつが、うばったんだ。あいつさえ生まれてこなければよかったのに……。
母も侍女もいないすきに、弟の部屋に忍びこんだ。
そのとき、自分が父の子であり、悪魔であることを、初めて自覚した。
最初はただ、母の可愛がる子どもを間近で見て、仕返しにイタズラの一つでもしてやろうと思っていただけだ。
見つめているうちに、とつじょ、抑えがたい感情がわきおこった。生まれて初めて知る殺意だった。
こいつさえ、いなければいい——
赤子の首を水がめのなかにつっこんでいるところに、母がかけこんできた。
母は赤ん坊をひったくると、思うさまプロメテウスをぶった。幼いプロメテウスが気を失うまで、なぐり続けた。
「恐ろしい。やはり、そなたは蛇の子じゃ。弟を殺そうとするとは。おまえなんて、あのとき死んでしまっていればよかったのに!」
母の叫び声を、遠くなる意識のなかで、かすかに聞いたような気がする。
それから母は、二度と、まともにプロメテウスの顔を見ようともしなくなった。
母にも父にも見向きもされなくなって、いつしか、プロメテウスは自分でも一人を好むようになった。
妃を何人めとってみても、どれほど慕われようと、むなしい。彼女たちは人型の自分しか知らない。
せめて、エンデュミオンが愛してくれればよかった。
でも、心をうばわれた、ゆいいつの者は、永遠に自分を愛さない。
もういい。誰も近づくな。
傷つけられるだけならば、何もいらぬ。
このまま深い心の檻のなかで、眠っているほうがいい。
心の闇の一番深いところに自分を押しこめて、ゆるやかな滅びを待っていた。
「センセ」
とつぜん、暗闇で声が聞こえた。
プロメテウスはふりかえった。
どこかで見たことのあるような娘が立っている。
あたりが夕焼けに包まれた。
梅の香のする神社の境内だ。
涙のうかぶ目で、そっと娘は小指をさしだした。
「大きゅうなったら、お嫁さんにしてくれるって、約束してたん、おぼえてはる?」
「春……か?」
さしだされた指を見て、プロメテウスは自嘲的に笑った。
「そなたは私の本性を知らぬ。だから、そんなことが言えるのだ」
「うち、平気。うちはセンセが好き。センセの一番になれへんでもええんよ。うちが一番に好きなん、センセやから。一生、センセのことだけ思うてるから」
プロメテウスは春の指さきを見つめた。
「……私の真の姿を見ても、そう言えると誓うか?」
春はうなずき、プロメテウスの指に、自分の指をからめた。
「指きりげんまん、ウソついたら針千本のーます」
そして、プロメテウスの首をかきいだいてきた。ふれあわせた頰に、春の熱い涙を感じた。
「センセ。好きや。大好きや。もう、どこへも行かんといて。センセがおれへんかったら、うち、生きてられへん」
不覚にも涙がしたたりおちるのを、プロメテウスは抑えることができなかった。
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