八章 もろともに あはれと思へ山桜 2—1

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 いやや。センセ、死なんといて。

 うち、まだ返事もしてへんのに。

 せっかく、大好きなセンセに夫婦になろて言われたのに。

 お願いやから、センセ。無事でいて。


 ヤツらの世界に行ったら兄上のことだけ考えておけと、艶珠さまに言われていたが、このとき、春の心には先生のこと以外、入りこむ余地はなかった。


 だからだろう。

 探すまでもなく、それは目の前にあった。


 どこまでも白い世界。カビというよりは、命のない白い砂のようなもの。骨が風化したような白い粉が、いちめんに音もなく舞い、降り積もっただけの、無味乾燥な世界だ。


 以前に見た北海の氷は、すでになくなっていた。


 その白い世界に、ただ一か所、半分、地中からツノのような断面を突きだしているのは、氷でできたお城だ。

 ぶかっこうだが、岩肌に刻んだ寺院のような形は、闇の国の竜城に似ている。


 氷のなかに先生がいることがわかった。自分を分解しようとする力に、必死で抵抗している。意識を正常に保っていることが難しいようだ。


 なんとか氷のなかに入りたい、と思った瞬間、どうやったかわからないが、春はその内にいた。


 氷でできた天井と壁。それが、しだいに薄暗くなり、奇妙な建物のなかに変わっていた。畳の部屋もあれば、岩をくりぬいただけの部屋もある。王城のような黒い石の部屋もある。


「とうぜんだ」


 ふいに声がして、ふりかえると、先生が立っていた。


「センセ!」


 喜んでかけよろうとした春は息をのんだ。

 先生の体は、なかば透きとおり、輪郭もゆがんでいる。


「センセ……」


「ここは私の記憶でできている。私の内世界と言ってよかろう。そして、私は、彼が、彼を助けるために来た者へ残したメッセンジャーだ。

 私はゲートが閉じたとき、こちらの世界に残っていた北海の組成をすべて、かき集め、ここを作った。北海の組成が食いつくされるまでのあいだ、自身を守るシェルターとして。

 同時に、私自身のもっとも基本的、かつ重要な要素である核を、内世界の最奥に封印した。私を救う気があるなら、核を見つけてくれ。

 ただし、このなかは私の記憶が作る迷宮だ。私は今、感情を制御できない。知った者でも傷つけるかもしれぬ。くれぐれも、怒りや憎悪の感情が生みだす私には見つからぬように。

 タイムリミットは氷が溶けるまで。北海の組成が完全に食いつくされ、私の内世界が外部にさらされるまでだ。リミットをすぎれば、私の記憶は新しいものから、順に食われていく。メッセンジャーから伝えることは、以上だ」


 言うだけ言って、先生の姿はくずれるように消えていった。


(氷が溶けるまで……そんなん、いくらもあらへん)


 外から見たとき、氷の城は、今にも白い砂に押しつぶされそうに小さかった。


 氷がなくなると、先生の思い出は新しいものから消えてしまうという。

 一万年を生きる先生にとって、春とすごした、この数か月は、ほんのまたたきするあいだのことだろう。

 春のことは先生のなかで、一番、新しい記憶なのだ。


 氷が溶けたら、先生はまっさきに春のことを忘れる。


(いやや、センセ。うちのこと、忘れんといて)


 春は夢中で奥へかけていった。

 薄暗いが、真っ暗ではない。どこから差すとも知れない光が、ほの暗くあたりをてらしている。夢のなかの感じに似ている。


 日本間の座敷と廊下が続いた。

 廊下は細くまがりくねり、迷路のようである。


 目の前を、つと人影がよぎる。

 先生か? いや、違う。うしろ姿だが、くるくると巻いた金色の髪をなびかせた少女。


 艶珠さまだ。橙色と象牙色の市松模様の振袖を着ている。市松模様の上から桃色と萌黄色の小花がらのソウビの花が刺しゅうされている。裏地は赤のちりめん。片結びの帯は、黒地に金糸でオリヅルと御所車を織りこんだ、どんすだ。


 艶珠さまは白足袋をはいた足で、パタパタと可愛い音をさせて、横手のふすまのむこうへ入っていった。


 すると、追うように春のすぐうしろから、先生がかけてきた。


「エンデュミオンを見なかったか?」


 先生は必死の形相で、春の肩をゆさぶった。

 ビックリして、春は、さっきのふすまのほうを指さした。先生は礼も言わずに走っていく。


 ——と、とうとつに場面が変わった。


 青い月の光に、こうこうと照らされた岩窟がんくつの城。

 銀杯を一つ手に、従者に背をむけ、窓外を見ているのは先生だ。西洋の服を着ている。


「第九王子の叙位式だと?」


 先生がふりかえる。

 戸口にひざまずいていた従者は、いっそう、ちぢこまった。


「はッ。三日後の月没後、王城にて、おひろめなさいますとか。招待状が来ております」

「近ごろ父上に、そんな子どもがいたか? 王子になれるほど魔力を持つ子どもが誕生したなど、ついぞ聞かぬが」


「これはウワサにございますが、人間の女に生ませた御子らしゅうございます」

「母上が行かれてはどうだ? それで義理は立とう」


 トカゲのオバケみたいな従者が、頭を床につける。


「それが、その……テミスさまにおかれましては、おかげん悪しく、殿下にお願いいたしますると……」


 冷たい笑みが先生の口元に浮かぶ。


「めんどうな役を親子で押しつけあっていては、あいだに立つそなたが困るというわけだな。よかろう。私が参ろう。母上には、そう伝えるがいい」

「はッ」

「さがれ」


 従者がいなくなると、先生は銀杯を口に運び、つぶやいた。


「……それしきのこと、何も人伝てでなくともよかろうに。母上は私の顔も見たくないらしい」


    

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