八章 もろともに あはれと思へ山桜 1—2.
*
無人のような広い屋敷。
鬼火のように飛んでいく、白いもや。
そのあとを追って、春と先生は、どこまでも走っていった。
廊下がとぎれると、白カビは
春たちも急いで、あとを追う。座敷のなかは家具や仕切りが多いので、見失わずに追うのに苦労した。
「センセ……うち、あとから追っかけますさかい、さきに行っとくれやす」
「そなたを置いていくわけにはいかぬ。目を離すと、すぐに災難にあうからな」
先生は抜き身をさやにおさめ、春を両腕で抱きあげた。
「すんまへん。センセ」
「気にするな。ヤツの速度がゆるんだ。力つきてきたのかもしれぬな」
先生の言うとおり、矢のように飛んでいたカビが、フラフラしているように見える。大きさも、ひとまわり小さくなった。
「あのカビカビが、自分の国では違う姿しとるんやろ? ほんまは、どないなんでっしゃろ?」
「最初にヤツらの世界に落ちこんだ物体が、なんだったかにもよるな。それにしても、境界外の世界とはいえ、ああまで形をなさぬということは、もともと複雑な形を持たぬのかもしれぬ」
先生にかかえられたまま、いくつかの座敷をすぎた。
春は先生が疲れたのだと思ったが、そうではなかったらしい。先生はおさめた刀をふたたび、ぬいた。
春にはわからなかったが、ふすまのむこうに人の気配があるらしい。そういえば、ふすまのすきまから明かりがもれている。
春をさがらせて、先生は勢いよく、ふすまをひらいた。
座敷のなかには、うちかけをかけた、あんどんがあった。薄暗い光だが、ずっと暗闇を走っていたから、とても、まぶしく感じられた。その光は夜の海に浮かぶ漁火のようだ。
なかには、たしかに人がいた。
白カビが尾をひいて、その人の胸のあたりへ吸いこまれていく。
品のよい武家の奥方だ。
産着を着た、ややこを抱いている。
その女のおもてに、春は見おぼえがあった。もう記憶のなかの顔もおぼろになりつつあったが。
「……かかさま?」
生みの親の顔はおぼえていない。
しかし、これは二人めの母だ。春が五つになるまで江戸で育ててくれた母。
母は、ぽろりと涙を浮かべた。
「おぼえていましたか。ほんに娘らしゅうなりましたね。沙帆や。そなたのことを案じない日はありませんでしたよ。わらわの乳で育てたそなたですもの。
そなたを沙帆と名づけたのも、わらわです。千代田の城の姫さまが、竜田姫よりその名をいただいたと聞き、それに劣らぬ名を授けてあげたかったのです。あなたの名は、佐保姫さまよりいただいたのです」
おぼえている。母はいつも、そなたは佐保姫なのですよと言っていた。優しく愛らしい、たおやかな春の女神なのだと。
だから、春は先生に名前を聞かれたとき、とっさに“春”と答えたのだ。
にっこり笑って、母は春に手招きした。
「さあ、ここへ来て、そなたの顔をよう見せておくれ」
春は歩いていこうとした。
が、その肩を、ぐっと押さえられた。
ふりかえると、厳しい目で先生が春をとどめている。
「たしかに、双子の姫のかたわれを預かったのは、老中山野の娘、水戸藩主の奥方だ。沙帆と名づけられた姫が五つまで、江戸の上屋敷で育てられている。あなたがその奥方だな。
こちらはキーマンに関することは、すべて調べつくした。なんでも知っている。あなたが沙帆をわが子のように慈しんだのも事実だろう。だが、あなたの乳で育てたというのは、どうだかな。
人伝てに聞いた春は、あなたが乳飲み子を亡くしたのだと思ったようだが、じっさいは、そうではない。あなたは自分の子を流産したのだ。あなたの子は、この世に生まれてくる前に、すでに死んでいた。あなたが今、その手に抱いている子だ」
ハッとして、春は母の抱く産着のなかの小さなおもてを見なおした。
ほんとに小さな、かたまりだった。
赤くて、ぶよぶよして、肌がすけて血管が見えている。
胎児なのだ。
母の胎内を出れば、すぐに死んでしまうはずなのに、その胎児はピクピク動いていた。十七年前から成長することもなく、胎児のままで生き続けているのである。
先生の声が真実を告げる。
「死人にとりつく例の魔法だな。その赤子がゲートの持ちぬしだ!」
刀をかまえ、先生が進みでる。
そのとき、母の背後でふすまがひらいた。抜き身をさげた侍が数人、立っている。続いて、春たちの入ってきたがわからも、わらわらと男がかけつけてきた。
先生は油断なく四囲を見まわす。
「殊勝なこと。ゲートを守ろうというのか」
母は女とは思えない低い声で、ささやいた。
「われらは生まれおちるより前に死したもの。死のまぎわの無明」
そして、母は男たちのうしろに退いた。
春と先生は二十人ほどの侍にかこまれてしまう。
「先生……」
「泣くな。そなただけは、何があっても守る」
やあッという声とともに、一人が切りつけてきた。
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