八章 もろともに あはれと思へ山桜
八章 もろともに あはれと思へ山桜 1—1
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どこからか月光が入るらしかった。
月明かりにてらされ、男の顔が、はっきり見える。
まちがいなく、矢三郎だ。
しかし、そのおもては月光が陰影をつけ、幽鬼のように見える。
そして、矢三郎もまた、春たちを見て息をのんだ。
「ばかな……死んだはずではなかったのか」
先生のことだ。
矢三郎は以前、自分の手で先生を殺し、遺体を庭に埋めたのだから、おどろき戸惑うのは、もっともだ。
先生が言う。
「そなたに春を渡すわけにはいかぬ。冥土からよみがえってきたのだ」
「うぬっ。物の怪めが」
その言葉が、どれほど真実をついているかも知らず、矢三郎は吐きすてる。
先生は落ちついていた。
「勝負といくか。今度は負けぬ」
「ほざけッ!」
たたッと、いきなり、矢三郎はふみこんできた。
先生は、まっこうから、その刃を刀身で受けとめた。高い金属音がひびく。先生は力いっぱい、矢三郎の刀を押しもどした。
矢三郎が二、三歩、たたらをふんで、あとずさる。おどろいた顔で先生を見なおした。
そのあと、中腰で刀をかまえたまま動かなくなる。油断のならない相手と悟ったのだ。
先生が一歩、前に出ると、矢三郎が一歩さがる。矢三郎が左へよれば、先生が右へ動く。間合いがちぢまらない。
矢三郎は江戸城随一の剣の使い手。
先生も、それに劣らないということだ。
ずいぶん長いあいだ、両者はにらみあっていた。
自分の好きな男と、自分を好きだと言ってくれる男が、目の前で争っている。
見守る春はハラハラしどおしだ。
先生のことが心配なのはもちろん、ほんとは矢三郎にも傷ついてほしくない。矢三郎の気持ちが、あやつられたものだと知っているから、なおさらだ。
(うち、知っとった。川田はん、ほんまは亡うならはった竜乃さまのこと、慕うてはったこと)
以前の矢三郎が、春を見て口をへの字にまげていたのは、気高い姫だった竜乃にくらべて、町育ちの春が、あまりにも不出来だったからだ。姉姫と同じ顔なだけに、よけいにダメなところが目についたのだろう。
矢三郎は武家の姫らしい、きぜんとした竜乃を好いていた。
春にはイジワルだった姉も、きっと矢三郎の前では可愛らしい姫だったのだ。あるいは、竜乃がイジワルになったのは病気になってからだったのかもしれない。
きまじめな矢三郎は、姫が死んでからも身分違いの恋を、おもてに表すことはなかった。
だが、一度だけ、こう聞いたことがある。
春が竜乃の身代わりになり、気持ちがふさいでいたときだ。ただ一度、最後のわがままに外出がゆるされた。北野天満宮の観桜を許可されたのだ。
そのとき、カゴのなかから見るだけでは哀れに思ったのか、矢三郎が仲間の護衛を遠くへやって、春をカゴから出してくれた。
以前は春も、たびたび花見に来た天神さん。
先生と初めて会った場所でもある。
皇室に入れば、今よりも自由は失われる。ことによると、一生、
桜を見ながら涙ぐむ春を見て、矢三郎が急に言いだした。
「以前、姫とともに嵐山の桜をめでたことがござった。御殿医にも病は治らぬと、さじをなげられたころだ。姫はご自身が長くないことを、ご承知であられた。わが名は竜田姫より一字をたまわりしゆえ、桜より紅葉が好きじゃと……また見に参ろうと、けなげに笑っておられた」
言いながら、なぜ、矢三郎が自分の手を見ていたのか、そのときはわからなかった。
でも、今ならばわかる。
きっと、約束したからだ。
春が先生とそうしたように、竜乃と矢三郎も、指きりして約束したのだろう。
いっしょに、また来ると。
二人で紅葉を見ようと。
その約束が守られないことを知っていながら……。
似ているけれど、どこかが違う。もう一つの世界では、矢三郎と指きりしたのは、春だった。でも、この世界では、それは竜乃だったのだ。
何よりも大事なその思い出を忘れて、あやつられるままに春を慕う矢三郎が、あまりにもかわいそうだ。
きっと、竜乃が春を嫌った本当の理由も、自分が死んだあと、そっくりな妹に恋人をとられるのではないかと思ったからだろうに。
(せやから、うち、ほんまは少し、川田はんのこと、ええなと思ったこともあったけど、ガマンしとったのに。この人は好きになったらあかん人やって)
春は叫んだ。
「思いだしてあげてください! 川田さま。ほんまに指きりしたんが、誰やったか。紅葉を見にいく約束しはったんでしょう?」
その瞬間、矢三郎に一瞬のすきが生まれた。
忘れてしまった遠い日の記憶が、脳裏をかすめたのだろうか? しだいに剣がさがっていく。
そのすきに吸いこまれるように、先生は切りこんでいった。二人の体がかさなる。離れたときには、もう矢三郎は、ろうかに倒れていた。
「川田さま——」
かけよる春を先生が制する。
とどめを刺そうとするが、その必要はなかった。
矢三郎は微笑した。
「思い……だした。もみじ……」
つぶやく矢三郎の口から、白いもやもやが、とびだしてくる。矢三郎が記憶をとりもどしたから、居場所がなくなったのだ。
「……竜乃……さま——」
それが、矢三郎の最期の言葉だった。
(川田はん。うち、センセと会うてへんかったら、あんさんのこと、好きになっとったかもしれへん。石頭で四角四面で、でも、そこが可愛いお人どしたさかい)
よろしゅおしたな。
最期に大切なもん、とりもどさはって。
涙ぐむ春の肩を、先生が抱きよせた。
「行こう」
先生に肩を押され、春はかけだした。
そのさきに、矢三郎から出てきた白いカビが、奥へむかって飛んでいる。
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