七章 君がため 惜しからざりし いのちさへ 3—2
庭をめぐり、かなり奥まで来ていた。
月があがり、青白く、あたりをてらす。
しかし、まだ屋敷のなかは、さほど探索していない。
「お屋敷のなかやろか?」
「だろうな。我々の読みどおり、人間がゲートを持っているならば、このあいだに逃げだそうとしているはずだ。その前に見つけださなければ」
一瞬、とても近いところまで、黒木さまが身をひるがえして帰ってきた。
「オデュッセウス!」
それを呼びとめようとした先生は、近づきかけて、こわばった。先生の視線のさきを目で追って、春も凍りついた。
黒木さまが、さっき、
だが、その白目をむいた死体が、ナメクジのはうような速度で、ゆっくりと身を起こしている。
ふるえあがる春の手を、先生が強くにぎしりめる。
「そうか。ヤツら、死体と同化できるのだ。死体の死の瞬間のまま時間を止め、内世界の崩壊をふせいでいるのだろう。だから、死体が完全にくちはてるまでは、ヤツらがあやつることができる」
「そんなん、できますのん?」
「闇の国では時間をあやつる魔法は、西海の大女妖である西海母か、代々の魔王にしか使えない。きわめて高等な魔術だ。おそらく、ヤツらの世界と我々の世界の成り立ちの違いのせいだな。ヤツらの世界では、それは誰にでも使える容易な術なのかもしれない。ということは、ヤツらの世界の発生は……」
先生は何やら考えこんでいる。
「せやけど、センセ。死体が動くんでしたら、キリおまへんえ?」
「テセウスとオデュッセウスを呼びもどそう。いったん作戦を立てなおさねばならん」
でも、このときには、さきほど近くにいた黒木さまは遠くなっていた。
影使いと言っていたからだろう。
黒木さまの影が数人の前をよこぎると、その数人は動けなくなった。続いて、黒木さまがかけぬけ、かぎ爪で、あっけなく数人を切りさく。
「オデュッセウス——オデュッセウス!」
先生の声も耳に入っていない。
みるみる遠のいていく。
先生は春の手をひいて、そのあとを追いかけた。が、じきに立ちどまる。
春と先生のまわりには、いつのまにか死体が集まっていた。胸をさかれた者。ひたいを割られた者。肩から、けさがけに切られた者。
春は目をまわしそうになった。
先生は春の手を離し、前に出る。
「センセ……」
「大事ない。そなたを狙いはせぬだろう」
「でも……」
背中をつかもうとする春の手は、とどかなかった。
すい、と先生は足をふみだし、刀をかまえる。
死体の数は十に近い。
死体ながら、すきなく刀をかまえている。
春が案じているのは自分の身ではない。先生だ。
先生の指の長いきれいな手は、剣だこの一つもない。木刀をにぎったこともないのではないかと案じたのだ。
祈るように見つめる。
先生の背中が動いた。
同時に、胸をさかれた死体が右手から切りかかる。
白刃が月光にぎらつく。
先生の手が左から右へ、美しい線を描いた。切っ先にそって、血のしずくが、ふた粒、み粒、白い玉砂利の上に落ちた。
死体のさかれた胸が、さらに大きく口をひらき、上体がかたむいた。骨を断たれたのか、ずるずると地面にくずれて、死体は起きあがれなくなる。両手と両足だけが、バタバタとむなしく空をかいている。
先生は立ちどまることなく、前から来た死体のするどい突きを、くるりと体を半回転させて、かるくかわす。前へかけこむ死体の勢いを利用して、両足を切断する。
続いて背後から大上段でおそってきた死体を、ふりむきざまに腹をないだ。よろめいたところを、刀を持つ両手を断つ。
「春——走るぞ!」
先生が切りひらいた場所に道ができている。
その一瞬をのがさず、先生は春の手をひいて走りだした。
死体は追ってきたが、ありがたいことに、走る速度は、そんなに速くない。
死体のほかには人影もなかった。大部分は白石さまと黒木さまがひきつけて戦場を移したようだ。
「二人は愚かではない。魔性のさがゆえ破壊の欲求は強いが、血に飽いたら目がさめるだろう。感応力で私たちの居場所を探し、追ってくる」
そう言いながら先生は何度か立ちどまって、しつこい死体の追っ手を切りさいた。
やがて、死体もいなくなる。
みごとに二つに折られた雨戸のところから、屋敷のなかへ入ることができた。白石さまか黒木さまの仕業だろう。
一人はまだ庭らしく、ときおり悲鳴が聞こえてくる。
もう一人は屋内のようだ。屋内にも殺りくのあとがある。
「センセ。どこに行かはるん?」
「とりあえず奥をめざそう。ゲートを持つ者ならば、奥にて大事に守られているだろうからな」
屋内には灯火の一つもない。
夜目になれた目に、白い着物をまとう先生の姿は鮮烈だ。返り血もあびず、いつに変わらぬ端麗なたたずまい。
そのよこがおに、春は見ほれた。
「センセ。お強うおますなぁ。うち、ヒヤヒヤしとうりましたんえ」
「運動野の記憶はオリジナルから、ごっそり写しとられている。人工子宮内で電気刺激を受けることにより、筋肉や神経も理想的に発達する。私自身は刀をにぎるのも、今日が初めてだ」
「…………?」
「オリジナルにできることは、私にもたいていできるということだ。もっとも、しょせん体力は人並みだが」
「死んだ人が何度も来たら、困るんどすな?」
「うむ。だから足を使えなくした。どうやら、死体を動かすことはできるが、傷や切断されたものを治すことはできないらしい。時間魔法ならば、傷を負う前に戻せるはずだが……」
そのあいだにも、春と先生は屋敷の奥へ進んでいく。
いくつも続く座敷をしんちょうに、ふすまをあけながら、次の間へと移動する。
ごうかな邸内は、まるで無人のようだ。
屋敷のまんなかあたりだろうか。
座敷のあいだを通る
暗くてよくわからないが、侍のかっこうをしている。白石さまや黒木さまのツノのある姿ではない。水戸藩士であろうか?
逃げだすことのできる距離ではなかった。むこうも、こっちに気づき、近づいてきていた。
幸い、相手は一人だ。
先生は春を背中にかばい、入側の中央に立った。
「春。さがっていろ」
その声を聞き、相手が身をすくませるのがわかった。
「春? 春だと? 沙帆どのが、そう呼ばれていた」
聞きおぼえのある声。
闇のなかから、相手が顔の見わけられる位置まで近づいてくる。
春は驚がくした。
それは、まぎれもなく、川田矢三郎だった。
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