七章 君がため 惜しからざりし いのちさへ 2—2
*
暮れ六つには水戸藩邸についていなければならない。
酉の刻には出発するのだと春は思っていたが、そうではなかった。
歩いていけば、とうぜん、人目をひく。だから、日没前になってから、魔法で藩邸前に行くのだそうだ。出門さま二人は敵地を偵察するために出かけていった。
留守番のあいだに早めの
先生が自分でえらびだした着物を見て、この人は死ぬつもりではないかと、春は恐ろしくなった。
丸に一つ引に三つ鱗(家紋)の五つ紋の白羽二重の小袖。
地色が白で、ひざから紺の
長じゅばんも白。
白無垢でこそないものの、死装束に近い。
先生は長持ちのなかから、大小の刀をだしてきた。
「春。髪を結ってくれぬか」
「うち、なれとりまへんえ」
「髪結い床(美容院)に行くわけにもいかぬ。怪しまれてはならぬからな。髪が乱れなければよいのだ」
そう言われれば、断りきれない。
言われるままに、春は
「センセ……死ぬ気やおまへんやろな?」
「気をひきしめるだけだ。案ずるな」
案ずるなと言われたって、案じてしまう。
すべらかな先生の髪をくしけずりながら、春の心は複雑にもつれる。
「なあ、センセ。おりじのセンセは人間になりたいみたいでしたえ」
「そうか? それは気づかなかったな」
「センセと、おあいこですやん」
めずらしく先生は声をたてて笑った。
「そうか。あれがな。オリジナルに羨まれていると思えば、胸もすくか。しかし、あれほどの力を持っていて、なぜ、人間になどなりたがるのだろう?」
「それは、うちにもわかりまへんけど。でも、おりじのセンセとセンセ、ほんまに一つになれたらええのに。ほなら、センセは出門さまに、おりじのセンセは人になれますやろ」
「……春。すべてを終えたのち、もしも二人とも生きていたら、そなた、私と
ドキリと胸をつく言葉。
春は耳を疑った。
「え? センセ……?」
「この作戦が終わったときには、境界も変わる。クローンが必要なら、新たな境界上で改めて造るだろう。そなたもキーマンではなくなる。私もそなたも必要なくなるということだ。つまり、私はここで、人としての人生をまっとうしなければならない。伴侶になってはくれぬか?」
それは、とても嬉しい。
嬉しいけれど、素直に喜べない。
オリジナルの先生は、どう思うだろう?
たそがれのなか、指きりしたのは、孤独な目をした魔性だった……。
「うち……どないしたらええんか……」
「すぐに返事を聞きたいわけではない。考えておいてくれればいい」
先生の髪をきつくしばって、春たちは立ちあがった。
「センセ。ごりっぱどす」
「参ろうか」
ちょうど時刻もほどよい。
偵察に出かけていた二人の出門さまも帰ってきた。
「日暮れまで今少し。私は殿下についてまいりましょう」と、二本ヅノの黒い出門さまの声。
春はこの人を、
白い出門さまの足元から、先生の足元へ、影が移動する。
「では、私がお二人をおつれいたします。王太子殿下、御身にふれますこと、おゆるしを」
一角の白いほうの出門さまは、
白石さまは出門さまらしくなく物腰がおだやかだ。先生の前に片ひざをつき、手に接吻している。
春の手にも同じようにしたが、さわられたとき、ピリピリするような出門さま特有の感じはあるものの、怖くはなかった。
「テセウスは一角だからな。誠実で潔癖だ。信用に足る」と、先生が言う。
白石さまが頭をさげた。
「光栄にございます」
「だが、出門は出門だ」
なぜ、先生がそんなことを言うのか、そのときはわからなかった。
蔵を出たところで、白石さまに手をとられた。空を飛ぶ感覚には、もうなれたが、近所の人に見られたらと思うと気が気じゃない。
「心配ございません。人の目には映らぬようにしております。水戸藩邸に入るまでは、目立つ行動はひかえねばなりませんので」
問題の水戸藩の京屋敷は、二条城のすぐ北にある。
二百年前、当時、京の治安を守っていた京都所司代が廃止されたのち、その屋敷あとに入ったのだ。
敷地の広さもなかなかで、二条城の半分とまでは言わないが、それに近いくらいある。
塀の外は水堀。
表門、長屋門、裏門ともに堅固な造り。
なまこ塀に守られた屋敷を見ながら、白石さまが口をひらく。
「私とオデュッセウスは、あえて化身をとかずに参ります。なみの神経の持ちぬしならば、まず逃げだしましょう。出門に立ちむかってくる者などおりません。それでも刃向かってくる者は、まちがいなく心を食らわれ、あやつられし者。敵方も、ゲートをやぶられるわけにはいかぬでしょうから」
血を吐いたような夕焼けが、刻一刻と薄暮にぬりかえられていく。
先生の影が、すい、と立ちあがり、黒木さまの二本ヅノの姿になった。
先生は空を見あげて、両名に告げる。
「表門より行こう」
薄暮の空に残っていた最後の夕映えが、闇のなかににじんで消えた。鞍馬山へ帰るカラスの群れも、もう見えない。
見あげる屋敷の武家長屋にも、ぽつりぽつりと灯が入ってきた。
春たちは表門をめざしていった。
水戸藩邸のまんまえが二条城なので、城の唐手門の前を通るとき、門番が口をあけて四人を見ていた。しかし、出門さまのすることなので、見て見ぬふりをしている。
さらに西に行くと、水戸藩邸の大手門だ。
門は閉ざさていた。
「かんぬきがかけられておりますな」と、言いながら、黒木さまは、かるく門を押した。
かんぬきの折れる音がして、門はかんたんにひらいてしまった。門番所にいた門番が腰をぬかしている。
その前を素通りし、白石さまと黒木さまが、ならび立つ。
「我こそは出門国第九王子が一の従者にして、御方が名代。先代黒竜王が王子ペリアスの子。名をばテセウス。またの名を白石鉄扇と申す。出門国太子たるプロメテウスさまの命にて見参」
「同じく太子さまが命にて参ったは、オデュッセウス。またの名を黒木流影。出門国京都勤番頭にて、闇王城随一の手練れなり。本日は水戸藩士に謀反のたくらみありとて、根絶やしに参った。身におぼえある者は、いさぎよく出会え!」
白と黒の両雄というにふさわしく大喝する。その声は敷地中に、ひびきわたったのではないだろうか。
あわをくった門番が、意味不明の悲鳴をあげながら逃げていった。
「来ぬときは、こちらから参る」
すると、詰所からバラバラと人影が現れる。表長屋のほうからも数人。中長屋からも庭をよこぎってくる。
一角、二角の出門さまを見て、白刃をさやばしらせるが、なかには手のふるえている者もいた。
白石さまが左右の色の違う瞳に、一片の情けをたたえた。
「むかう者は討ち、去る者は追わぬ。ただの忠義の者なれば、とく去るがよい」
誰も去る者はいなかった。
その数は三十ばかり。
月の出前の
「春。私から離れるな」
ささやく先生の手も、いつでもぬけるよう刀のつかにかかる。
緊張した数瞬。
やがて、最初の一人が切りかかってきた。
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