七章 君がため 惜しからざりし いのちさへ 2—1

 2


 気がついたとき、そこは先生の蔵のなかだった。


 先生の布団に寝かされた春の枕元に、先生が正座している。

 端正なたたずまいだが、今の春にはわかる。それは先生の形をしてはいても、本当のあの人ではない。


 恐ろしい感じがしないからではない。

 あの人の思い出の断片を写しただけでは、やはり不完全なのだ。あの人の心の奥にある苦しみを、この人は知らない。この人では、あの人が胸の奥深くにしまいこんだ、扉の内の秘密にふれることはできない。


 人間の先生は、春の目のなかに、その思いをくみとったようだった。


「出門としての絶大な力の記憶を持ちながら、人でしかない己というのも、みじめなものだがな」


 苦笑をうかべて、そう言った。


「ことに今のように、オリジナルと切り離されていると、いらぬことまで考えてしまう。手足が独自の感情を持つことなど、ゆるされまいに」

「人間のセンセは、出門さまになりたいん?」


 先生はほほえむだけで答えない。

 だが、たぶん、そうなのだろう。

 だとしたら、人間の先生にも悪いことをしてしまった。


「そなたが悪く思うことはない。これは私の個人的な問題だ」

「人間のセンセも、うちの思うとること、わかるんどす?」

「まさか。心が読めるわけではない。そなたは考えていることが、すぐ表情に出るからだ」


 春が恥ずかしさに、もじもじしていると、外から扉がひらいた。艶珠さまが入ってくる。


 今日の艶珠さまは男のほうだ。

 長いブロンドをもとどり一つで高く結っている。

 山吹色の地に黒で吉原つなぎの文様をそめた、あわせ(裏地付きの着物)を着ていた。裏地は緑らしい。

 目をひくハデな着物だが、その上、大きくはだけた襟元に、宝玉の首飾りをぶらさげている。裸の胸にきらめく宝玉がなんとも悩ましい。


 おかげで、うしろについてくる人物は目立たない。が、本来は、こっちのほうが度肝をぬいている。

 なぜなら、その人は、ひとめで出門さまとわかる姿形だったから。


 顔立ちは、これまで見た、どの出門さまより優しい。

 きれいなおもざしの黄色い髪の紅毛人だ。着ているものも、純白のフロックコートとかいうものだ。白い服が似合う出門さまは、めずらしい。

 瞳は茶と水色。左右で違う。


 だが、一つだけ出門さまらしい特徴がある。ひたいに銀色のツノが一本、剣のように、するどく突きだしていた。


 艶珠さまが告げる。

「テセウスを江戸から呼びもどした。彼なら昼夜問わず魔法が使えるし、アメリカ大統領の相手なんて、人間の外交官で充分。どうせ、我々の魔法の力を借りたいって話なんだろうし」


 艶珠さまは計画どおり、助っ人を呼びに行っていたのだ。


「助っ人は二人やおまへんでしたか?」


 春がたずねると、艶珠さまは笑った。

「オデュッセウス。もとの姿に戻れるか?」


 艶珠さまの問いかけに、どこかから、くぐもった声が答える。

「窓をしめていただければ、できましょう」


 昼なので、薄暗い蔵のなかとはいえ多少の光は入る。急いで窓をしめきり、西洋あんどんをつける


 すると、いきなり、艶珠さまの影が、にゅにゅっと立ちあがった。二本のツノのある浅黒い裸の男になる。顔は研究所で艶珠さまを出迎えた、あの男だ。


 きゃっと春が悲鳴をあげると、艶珠さまか、おかしそうに笑い声をあげる。


「オデュッセウスは影使いなのだ。影は光をさえぎられた部分にできる闇の断片だ。だから、影になっていれば、昼間でも行動できる。影でいるあいだは、影使いの技しか使えないのが難点だが」


 そういえば、出門さまは昼間の光をあびると燃えつきてしまうのだった。

 では、なぜ、白いほうの一角さんは大丈夫なのだろうかと思っていると、


「テセウスは生まれつきではないが、わけあって体だけ人間なんだ。王子の私ほどは魔力が強くないから、パラレルワールドを歩きまわることまではできないが。

 だが、この二人は強いぞ。王族をのぞく闇の国の戦士のなかで最強と言っていい。二人に任せておけば問題はあるまい。春、おまえは二人にピッタリついていき、ゲートが現れたら、すかさず飛びこむんだ。むこうでは兄上を助けることだけ考えていればいい。その思いが強いほど、ことは容易に運ぶ。くれぐれも、よけいなことは考えるなよ。精神世界では、それが命とりになりかねないからな」


 春はうなずいた。もう覚悟は決まっている。

 艶珠さまもうなずいた。


「では、私は行くが——そうだな。私が時間に余裕を持つためと、オデュッセウスが本体で行動できる利点を考慮して、今から五時間後。日没とともに藩邸に突入するといい」


 一角と二角の出門さまが、それぞれ、ツノのある頭をさげた。

 艶珠さまは階段をおりていこうとする。

 呼びとめたのは、人間の先生だ。


「待て。水戸藩邸には私も行く。かまわないな?」


 金色の巻き毛をゆらし、艶珠さまがふりかえる。


「なんで? そんなことしたら危ないじゃないか? まあ、テセウスとオデュッセウスがいれば、人間を一人守るのも二人守るのも同じだけど」

「自分の身は自分で守る。それに相手は人間だ。人間相手に遅れはとらぬ」

「前は殺されたじゃないか」


 艶珠さまは不満そうだが、先生は優しく微笑した。

 艶珠さまを愛しく思う気持ちは、本物の先生から、ちゃんと受け継いでいるのだ。その思いは先生のなかで、あまりにも強く、抑えることも隠すこともできないのだろう。


「あのときは丸腰だったからだ。刀があれば、大事ない」

「……おまえにまで、もしものことがあると、困るんだけどなぁ」

「私の記憶はオリジナルのそれの、ごく一部。いずれも核となるものではない。核が失われれば、私の持つ多少の記憶など、残っていても役には立たぬ。ボディだけの問題なら、ほかにもスペアが複数ある」


 艶珠さまは肩をすくめた。

「わからないなぁ。なんで、そんなにこだわるんだ? テセウスたちに任せておけば、まちがいないのに」

「人としての意地、かな」


 艶珠さまは、じっと先生を見つめたあと、急に、こっちへかけもどってきた。ふわっと大輪の花がひらくように、ほほえみ、先生の頰を両手で包む。


「なんだか人間の兄上のほうが可愛いなぁ。イジメてみたい感じ」

「遠慮しておく」

「いいよ。ゆるしてあげる。行っておいで」


 それから、とうぜんのように、くちびるをあわせる。

 春はうつむいた。


(センセが好きなんは艶珠さま。でも、ええんや。うちが好きなんは、センセなんやもん……)


 艶珠さまが行ってしまうと、蔵のなかは、とたんに静かになった。嵐が去ったあとは華もなくなった。


 人工の光のなかで、三人の男が、ぼそぼそと話しだす。細かな打ちあわせをしているようだ。


 春は居場所がなくて、洗濯をしに外へ出た。

    

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