七章 君がため 惜しからざりし いのちさへ

七章 君がため 惜しからざりし いのちさへ 1—1

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 その日は闇の国の王妃の塔に泊まった。人間の世界で言う大奥だ。最上階をまるごと一室にした広い部屋が、照美さまのための寝室だ。


 以前、先生からもらった西洋の読本のさし絵に描かれた、お姫さまの部屋のようだ。


 真珠をぬいつけた薄絹のとばりをひいた寝台。

 唐草もようの毛の長いじゅうたん。

 大きな姿見。

 丸い卓と、そろいのイス。


 丸い部屋の八方には窓があり、緑色の月の光が部屋中に入りこむ。


 床のあちこちには、大きなはすの花が咲いていた。花芯から、いい香りのする白いもやをふりまいている。


 天井のあたりを飛びまわり、星のようにまたたきしているのは、王城の近辺でしか見られない、とてもめずらしい光の精だとか。


「あいかわらず、わらわの趣味にも王の趣味にもあわぬ部屋よのう。それでも、第一王妃の寝室ゆえ、あやつにも、つぶすわけにはいかぬようじゃ」


 今日は疲れたから、もう休もうと言いだしたのは、艶珠さまだ。

 それなら人間の世界に帰ってから休みたかったのだが、艶珠さまに断乎として拒否されてしまった。そのあと、艶珠さまは王さまと二人で、どこかへ行ってしまった。

 しょうがなく、照美さまが、ここへつれてきてくれたのだ。


「あのぉ、ご自身の趣味やないなら、なんで変えられまへんのどす?」


「ここはな、わらわの亡き母上が使うておられたときのままにしてあるのじゃ。わらわの母上も竜の長姫。先代の王、黒竜王が第一王妃じゃ。代々、王は竜の姫を第一妃にするしきたりでのう。竜族は闇の民のなかで一番強いからの。わらわもプロメテウスが幼年のおりまでは、ここで暮らしておった。どうにも蛇の弟とそりがあわぬので、里帰りしたが」


 照美さまの言いようを聞いていると、いつも“蛇”という言葉がひっかかる。どうも蛇をかろんじているらしく感じられた。

 年古りたみずちは竜になるという話なのに、こちらの世界では、そうではないらしい。


「何? 蛇が竜になるとな? とんでもない。たしかにウロコを持つところは等しいが、まったく別の生き物よ。蛇神なぞ、竜神から見れば下の下じゃ」


 照美さまに言われて、春は首をすくめた。出門さまには春の考えていることが、なんでもわかってしまうので困る。


「ああ、よいよい。わらわは、ぬしを気に入っておる。ぬしに、そこまで思われるとは、プロメテウスは果報者よ。いっそ、のう。ぬしゃ、わらわにい孫の顔など見せてはくれぬか。

 エピメテウスの嫁のパンドラは、可愛げのない女でのう。孫のピュラまで小憎らしいわ。

 プロメテウスの嫁よりはマシじゃがな。プロメテウスときたら、女の趣味が悪うて話にならん。なにゆえもって、ワニ王女のアンティゴネなどめとるか気が知れん。むろん、アンティゴネは南の城のあるじ。男のよりつかぬ醜貌しゅうぼうじゃ。おべっかの一つも言えば、城が一つ手に入るのじゃ。うまい話ではあるがのう」


 春は本日、何度めか知れぬショックを受けた。


「センセ……お妃さまがいはるんどす?」


「うむ。それは一万さいともなればな。と言うてもな。あやつのは政略結婚ばかりじゃ。誰から無理強いされたものでもなしにな。女の容姿など、どうでもいいらしゅうて、いまだ美々しき孫を見たことがないわ」


 先生は女のあつかいになれているから、そういう相手が誰もいないはずはないと思っていた。

 でも、政略結婚と聞いて、ちょっぴり、ほっとする。


 照美さまは春が帯をほどくのを手伝ってくれた。春の帯を鏡台のイスの背にかけながら笑う。


 照美さまは先生と同じ顔だが、表情がゆたかで明るい。


「王子と生まれたからには、さけられぬことよ。したが、なみの者ならば、まことに心にかなう側室も持つもの。あれがおかしいのは、そうした相手が一人もおらぬことよ。わが息子ながら、どこぞ病かと思うわえ」


 先生が艶珠さまを見つめるときの視線……。


 誰もいないわけではない。

 ただ、その人が手に入らないとわかっているからだ。


 照美さまは声をたてて笑った。


「エンデュミオンか。あれに惹かれぬ者は、この闇の国にはおらぬ。そうは言っても、あれは王の所有物じゃ。泣いても笑っても、いかんともしがたい。それをあきらめ悪く慕うてもなぁ。女々しいと申すか。執念深いと申すか。やはり、あれは蛇の子じゃ」


 蛇……。

 先生は竜族の長なのに、なぜ、蛇なのだろう?

 蛇神の王の子どもだからというのなら、それは、あまりに、かわいそうだ。


 ふふふと、照美さまは笑う。


「ぬしゃ、かわゆらしいのう。ぬしの生んだ子なら見目もよかろう。気立てもよかろう。たのむぞよ。のう」

「うち、命にかえても、センセを助けます」


「きばらずともよい。何事も運よ。わらわは長たる王子の留守を竜城にて守らねばならぬ。手助けはできぬが、幸運を祈っておる。さて、そろそろ湯浴みなどして、寝入ろうかのう」


 湯船というのは、床から生えた蓮の花のことだった。照美さまがふれると花弁がひらき、なかが、あたたかい湯になるのだ。


 花の香りのする湯につかり、南蛮式の寝床に入ったものの、なかなか寝つけなかった。


 今日はいろいろありすぎて、身も心も疲れきっているというのに。明日のことを思うと気がたかぶるのか。


「明日になったら、おまえは水戸藩に行くんだ」と、さきほど別れる前、艶珠さまは言った。


「水戸藩? なんでどす?」


「私のかんざしを渡しただろう? あれを身につけていれば、おまえの行動は離れていても、私にもわかる。だから、私は北海の消失点をタイミングを見計らって断つ。

 ゲートのサポートはテセウスとオデュッセウスにさせよう。あの二人には、別の精神世界に入りこむほどの魔力はないが、出現したゲートを固定しておくことくらいはできる。では、春。聞くが、そのゲートは、どこにある?」

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