六章 ちぎりきな かたみに袖をしぼりつつ 3—2
すると、艶珠さまも首をかしげた。
「そうなんだよ。それは私たちも、さんざん話しあったんだ。おまえときたら、子どものときからドンクサくて、とてもキーマンに思えないんだからな。夜中に一人で、かわやに行けないほどの怖がりだとか。そのせいで五さいまでオネショしてたとか。なんにもないところで器用にころんでみせてくれるしさ。かけっこはビリ。ジャンケンすると必ず負けるから、鬼ごっこなんて、いつも鬼なんだよな。そして、誰もつかまえられない」
つかのま、春は言葉にならなかった。
なぜ、そんなことを艶珠さまが知っているのだろう?
「なぜって、そんなの観察してたからに決まってるだろう? だって、キーマンなんだから」
「え……艶珠さまが?」
「いや。観察してたのは、兄上だけど?」
「ええッ!」
恥ずかしさに、春は顔から火が出そうだ。
艶珠さまの言うとおり、ドンクサイ子どもだった。今となっては忘れたいアレコレを、すべて先生が見ていたなんて……。
そこで、ふと、春は思いだした。
そんな感じで、とろくさい子どもだったから、近所のガキ大将によくイジメられていた。追いかけまわされて遠くへ来てしまい、迷子になったことがある。
梅の花。神社の境内。あかね色の空……。
——どうした? 迷子になったのか?
ころんで歩けなくなっていた春を、助けおこしてくれた人がいた。長い黒髪が肩さきでゆれていた。
あれは……。
「センセやったんや」
ぽろぽろと涙がこぼれてくるのは、なぜだろう?
「センセ、前と、ちょっとも変わってへんなぁ」
たった今まで忘れていたことが、昨日のことのように鮮明によみがえってくる。
あれは五つか六つのとき。
梅の花の盛りだった。境内は梅の香りであふれ、梅見の参拝客が行きかっていた。
今にして思えば、あれは天神さんだろう。子どもの足のこと、ずいぶん遠く家から離れてしまったような気がしていたが。
そうだ。江戸から引っ越したばかりで、土地勘がなかったのだ。
すっかり道に迷ってしまい、日が暮れた。参拝客もへっていく。心細いのと、ころんで痛いので、春は泣いていた。
そこに、とつぜん、目の前に人影が立った。その人は、まるで梅の古木のかげから、急に現れたように見えた。
「どうした? 迷子になったのか?」
見あげると、黒髪のゆれる肩ごしに、あかね色の空が見えた。瞳が西日をうけて、緑色にすけていた。
梅の木の精だと、幼い日の春は思った。
「もう泣くな。私がつれて帰ってやろう」
春を立ちあがらせて手をひいてくれた。
人通りの絶えた境内をぬけ、ぽつぽつと小さな灯のともる町並みをよこめに歩いていく。
そのあいだじゅう、その人は無言だった。けれど、ぎゅっと、にぎった手に力をこめると、優しく、ほほえんでくれた。
養父母の家が見えるところまで来ると、その人は手を離した。
「また会える?」
春の問いに、静かに首をふる。
「私は天神に仕える妖だ。私のことは忘れるがいい」
立ち去りそうになったので、春はその人の着物のすそをつかんだ。その人はおどろいて、春をふりかえる。
「私は物の怪だぞ。恐ろしくはないのか?」
春はかぶりをふった。
そして——
「大きくなったら、お嫁さんになってあげる。ゆびきり」
ゆびきりげんまん。うそついたら針千本のーます。ゆびきった。
幼い日の誓い。
涙があふれて止まらない。
(センセ。せやから、あのとき、あない怒らはったんや)
子どもの無垢だけれど、たわいない約束。大人になれば忘れてしまうような、あわい恋の……。
でも、それは先生にとっては、忘れられない思い出だったのかもしれない。
だから、研究所で先生の本性を見て、おびえる春に、あんなに怒りをあらわにしたのだ。
(センセ。うちに、だまされたと思たん? うち、センセにひどいことしてしもた。うち、忘れてしもて、すんまへん)
——そなたのことは、いつも見守っている。
そう言って去っていった。
あの日の先生。
今度は、うちの番。
必ずセンセのこと助けるから、待っててな。
うちの大切な、出門さま……。
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