六章 ちぎりきな かたみに袖をしぼりつつ 2—3


 春は艶珠さまと照美さまのあとに隠れて、怖々とついていった。


 なかは、どれくらいの広さがあるのか見当もつかない。千畳敷きの座敷くらいはあるだろうか? いや、もしかすると、もっと広いのかもしれない。あんまり広いので、四すみまで見渡せない。


 とにかく暗い。

 ろうかと同じ青白い火が天井からぶらさがり、中央だけ陰気に照らしている。


 両側の壁には、色つきのビードロで絵が描かれている。ステンドグラスというのだと、あとで艶珠さまが教えてくれた。


 絵は全部で二十枚。二枚が一対になっている。一対ずつが、十色の月の色に対応していて、それぞれの色の月にまつわる伝説か史実の一場面のようだ。


 おそらく魔法だろう。今は緑の月の一対にだけ、月光が入りこみ、ほかの絵は暗いままになっている。対応する月の光しか通さないようだ。


 緑の月の絵は、美しい花の精が大地から誕生してくるところのようだ。かたわらに、頭にツノのある人が立っている。この世界での英雄なのかもしれない。


 広間には、ほかにも黄金細工の飾りが山ほどあった。

 子どもの頭ほどもありそうな宝玉が使われた彫像。黄金のツボ。壁にすえつけの台。剣やよろいも黄金だ。

 黒瑪瑙の壁に反射する黄金の輝きが、幻想的なふんいきをかもしだしている。


 美しい。でも、それは見る者をどこか不安にさせるような、妖しい美しさだ。


 艶珠さまがささやく。


「あれが父上の玉座だよ。父上、もう来ていらっしゃるかな?」


 広間の一番奥まで行くと、一段高くなったところに、黄金細工の蛇がからみつく黒い石のイスがあった。


 イスの背景になる壁には、緋色のビロードの織物が飾られている。二匹の蛇が、たがいの尻尾をかんで八の字になっているようすが、金糸でししゅうされている。


 織物のむこうに扉があるらしかった。

 春たちが玉座の前に到着するころに、ちょうど、その扉がひらき、男が一人、歩いてきた。


 黒いローブというものをまとい、頭上に細い輪のような冠をかぶっている。

 背は高いが細身なくらいで、体に羽やツノはない。床につきそうなくらい長い黒髪を複雑な形に結っている。


 どこから、どう見ても人間だ。

 ただ一点、先生と同じ金緑の蛇の目を除いては。


 なんだか、男性のようにも女性のようにも見える。

 とても美しい。

 にもかかわらず、全身から黒い炎がおどっているように、息苦しいような圧迫感があった。


 春は悟った。さきほど、この広間の前で、むしょうに恐ろしいような気がしたのは、この部屋が恐ろしいわけではなかったのだと。


 恐ろしいのは、この男だ。

 美しい姿がゆがんで見えるほどの、すさまじい邪気を発している。


 春はまともに見ていることができなくて、一瞬で目をふせた。


 それでも、その一瞬で、男の禍々しさが脳裏に焼きついた。まるで、まぶたの裏に烙印を刻みつけられたかのように、離れない。

 見てはいけないものを見てしまったばっかりに、両目が見えなくしまったのではないかと思われた。


 これは、たしかに神だ。

 悪しき魔神である。


 ところが、春のよこで、

「——父上!」


 とつぜん、艶珠さまが走りだした。

 春は目をふせているから見えないが、興奮した叫び声が聞こえた。


「父上。父上。父上! 会いたかった。会いたかった。会いたかった!」


 チラッと見ると、ひとめ見ただけで身ぶるいが止まらなくなる恐ろしい魔神に、艶珠さまは両手両足で抱きついている。着物のすそが乱れ、いつのまにか姿も男に戻ってしまっている。

 それにも気づかないようすで、気が狂ったように頰ずりしている。目つきが完全にふつうじゃない。マタタビに酔った猫みたいだ。


(艶珠さまの好きな人って……)


 つまりは、そういうことなのだ。

 人間の世界の倫理観は通用しないらしいから、それは、この闇の国では責められることではないのだろう。


 王はそのまま、艶珠さまを子猫でも抱くように、かるがると抱えて玉座にすわった。


「テミス。転送、ご苦労であった」


 その声におどろいて、春は顔をあげた。王の声はビックリするぐらい先生に似ている。


 さっきは、すぐに目をそらしてしまったが、あらためて王の顔を見る。

 なるほど。先生の父上だ。

 顔は、またしても生き写しといっていいほど、先生に瓜二つ。眉がないが、違いはそのくらいである。


 だが、なんという冷酷で残忍そうな気配だろうか?


 これはもう聞かなくてもわかる。

 先生のことなど、王太子というほか、なんとも思っていないと。


 人間のいだく愛情とは、まったく無縁だ。たとえ、それに似た感情があるにしても、それは、まるっきり別のものに見えてしまうほど、恐ろしくいびつに、ゆがんだものだろう。


「ごきげんうるわしゅう。闇王陛下」


 照美さまは、さも、いやいやそうな感じで進みでて、さしだされた王の手に接吻した。


 正直に言うと、子どものころにイジメていたのだから、恨まれるのはしかたないと思っていた春だが、これは王を嫌う照美さまの気持ちもわかる。


 なんというか、そばによりたくない。

 その感覚は、春が人間だからなのかもしれないが。

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