六章 ちぎりきな かたみに袖をしぼりつつ 3—2
「エンデュミオン! おまえの匂いがした!」
わああっとかけよってきて、しめ殺しそうな勢いで、艶珠さまを抱きしめる。
「ああッ、会いたかった! 会いたかった! くそッ、てめぇ、おれのことなんざ、ほっときっぱかよ? この薄情者のスペシャルダッチワイフめ! ああーん? ほら、なんか言えよ。ごめんなさいだろ? 殺すぞ、つか、犯すぞ、こら」
先生と同じ顔のその口から、次々とびだす下品な言葉。
春はめまいをおぼえた。
これは断じて先生ではない。こんなものが先生であるわけがない。
もしも先生が、ここまで品のない男なら、春だって最初から好きになりはしなかった。
艶珠さまはクスクス笑っている。
「ひさしぶり、兄上。あいかわらずだなぁ」
「そんなこと、いいんだよ。早くやらせろよ。この服、どうやってぬがすんだ? じらすなよなぁ、もう」
春の見ている前で、艶珠さまを押したおし、着物をむしりとろうとしている。
春はうろたえた。
まわりには道具になりそうなものがない。しかたないので下駄をぬいで、えいやっと男の頭にふりおろす。カッツーンと、いい音がした。
男は頭を押さえる。
「……なんなんだよ?」
「艶珠さまを離しなはれ。離さんかったら、もう一つ、なぐりますえ」
「わああッ。なんだよ、おまえ? どっから、わいてきやがった?」
「どっからもなんも、さっきから、ずっと、おましたえ。そういう、あんさんこそ、どなたはんえ?」
「わっからーん! おまえの言ってること、ぜんぜん、わかっからーん!」
「やめてェっ。うちのセンセと、おんなし顔して、アホづらせんといてー!」
「うっわぁ! アホづら言いやがった……」
「アホですやん」
きわめて端正な顔で、きわめて三枚めな、この男の名前は、エピメテウス。プロメテウスの父母の同じ弟だ。顔はそっくりだが、なかみは正反対——と、艶珠さまが笑いころげながら教えてくれた。
「弟はん? ほんま、そっくり——あ、イヤや。やっぱり、ちいとも似てへん」
ニカッと白い歯を見せて笑いかけられて、春はそっぽをむいた。
エピさんはガックリ肩を落とす。
「なんだよ、こいつ。よく見たら人間じゃないか。おれに土産か? これ、食っていいか?」
「それは例の件のキーマンです。傷つけたら、父上にどんなめにあわされるか、わかっていますよね?」
「けッ。息子を人柱にして水責めにあわす親父だぜ。こっちが、なんにもしてなくたって、やるときゃやるね」
いきがってるが、目が泳いでいる。
そうとう父親が怖いのだろう。
「それはそれ。キーマンなんかつれてくるってことは、おれに会いにきてくれたわけじゃないんだな?」
鼻をほじって床にとばしている。
春は涙が出そうになった。
「イヤやぁ。こんなん、センセやなーいっ」
「ウルサイやつだなぁ。さっきから、セッセ、セッセって、なんなんだよ。やっぱ、キーマンは変わってんな!」
「プロメテウス兄上のことですよ。むこうで先生って呼ばれてるから」
「プロメテウスか。あいつは好かん。おれと同じ顔のくせに根暗なんだよな。もうウザイてか、キモイってか。少しは、おれを見習えっての」
「長兄殿が優秀だからって、ひがまなくてもいいじゃありませんか」
「……もういいッ!」
急に怒って部屋をとびだしていく。
あっけにとられて、春は見送った。
「せわしないお人どすなぁ。エ……えす……えいす——英助はん」
艶珠さまが一瞬、絶句する。
「英助ッ? あれが英助ってガラ? 英って英雄の英だよ? 英君の英。英明の英。どう考えたって、名前負けだろう?」
艶珠さまはお腹の皮がよじれそうなほどに大笑いしている。
気の毒だけど、それは春も思った。
「英助はん、えろう短気なお人どすなぁ。あれでセンセと同じお父はん、お母はんやなんて、ウソみたいやわ」
「英助ってやめてくれる? 笑いすぎてお腹痛いんだけど……」
「せやかて、ほかに呼びようありまへんもん。艶珠さまは、お母はんが人間なんやてな」
それでも、まだまだ笑ったあと、ようやく艶珠さまは真顔になった。
「父上には正式な妃だけでも何百人といるからね。死んだのも入れれば、三千人は。だから、子どもも、わんさかいるけど、王子や王女と認められるのは、それに見あう魔力を持って生まれた者だけさ。私も王子だが、エピメテウスは違う。あいつは魔力も弱いし単純バカだ。現状、成人している王子は私とプロメテウス兄上だけなんだ。前はもっといたけど、私が全部、殺したから」
「えッ——?」
「おもしろいゲームを思いついたからさ。あのときは楽しかったな。あとで父上に、こっぴどく叱られたけど」
艶珠さまは平然と言う。
これが悪魔なのだ。
欲望に忠実だとは聞いていたけれど。
「そうさ。私たちは、そういうふうにできてるんだ。人間がふだん理性で抑えてることも、ここでは禁忌じゃない。だから、殺しあいなんて、しょっちゅうさ。とくに王子どうしは次の王位をかけてライバルだから。次の王は今のところ、プロメテウス兄上と決まっている。正式に立太子式もしてる。でも、そのぶん命を狙われやすい。とはいえ、いつもの兄上なら、誰も太刀打ちできない。強いからね。今回みたいなチャンスをてぐすねひいて待ってる連中は多いよ」
みんなで殺しあって、王位のうばいあい。
闇の国も人間の世界と同じだ。
春の大嫌いな政権争いに明け暮れている。
「ほんで、センセは、いつも、ここに、ひとりぼっちでいはるんやろか? そのほうが安心やから?」
「さあ? そんなことまで知らない。まあね。竜族は闇の民の全種族のなかで格段に強いから、なかには王の子どもじゃなくても、王子に匹敵する力を持つ者もいる。族長の地位を狙うやつもいるかもしれないけど」
「艶珠さまは、どないなんどす? 王さまになりたいん?」
「私? 私は王にはならない。なりたくもない。私は強い男の下で、思いきり甘えてワガママ言ってるほうが好き。だから、プロメテウス兄上に死なれると困るんだ。闇の国のナンバースリーは、私だから」
ここへ来る前は、あんなに美しく泣いていたのに、そういう艶珠さまは先生を失って悲しいというより、迷惑そうに見えた。
やっぱり、艶珠さまも悪魔なのだ。
半分は人間だというけれど、それは体だけのこと。
心は魔性なのだ。
悪魔はどこまで行っても、悪魔にすぎない。
(センセも……? センセだけは違うと信じたい……)
先生は咲を殺すとき、ほんとに、これっぽっちも血に酔いはしなかっただろうか?
毛ほども悪魔の喜びを感じなかったと言えるだろうか?
(センセに会いたい……)
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