六章 ちぎりきな かたみに袖をしぼりつつ
六章 ちぎりきな かたみに袖をしぼりつつ 1—1
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その感覚は、研究所のなかで奈落を通ったときに似ていた。少しのあいだ、ふわふわした感じがあった。
足がかたい大地にふれると、周囲が明るくなる。
世界中が緑一色に染めあげられている。若葉の萌えあがる山ぎわの色のような色合い。
だが、目の前にあるのは、草木一本と生えない岩山だ。堂々と天をさし、
先生の書斎にあった、絵の風景そのままだ。違うのは、絵では見えなかったところまで、大パノラマで見渡すことができる。
「ここが……闇の国」
春は圧倒された。
北海のときは雪と氷しかなかったし、天候が悪く、遠くまで見通しがきかなかった。
だが、ここは、まちがいなく異次元だということが、ひとめでわかる。
星のない真っ暗な空に浮かぶ、ぶきみなほど大きな緑色の月。
岩山の城のふもとから、果てしなく続く暗い森。
森のなかを鬼火のような青い光が無数に飛んでいる。
ときおり空を飛んでいるのは、コウモリのような羽を持持つ、トカゲともなんとも言えない生き物だ。ずんぐりした四つ足の、かなり大きな生き物である。
春がしゃがみこんでいると、艶珠さまが言った。
「べつに腰をぬかすほどのことでもないだろう? 私たちは見てのとおり、自然主義者だからな。住むところ以外はほとんど手つかずだ。まあ、私は人間の作る遊園地の絶叫マシンも好きだけど」
後半は意味不明だが、そういう言葉も、今の春の耳は素通りする。
「でも、お月さんが緑でっせ」
「今は緑の月だからな。闇の国には十色の月があり、ひと月ごとに色が変わる。私は金の月や赤の月のほうが好きだ。黒の月なら、昼でも暗い」
今でも充分、暗いのだが。
とにかく闇の国と言うだけあって、ねっとりとからみつくような闇が、あたりを閉ざしている。緑色の暗い月の光では、とても照らしきれない。
「あの絵のなかに入ってきましたんか?」
「あの絵は簡易ゲートだ。転移の魔法を
なるほど。それで、絵のなかの月の色が変わったのだ。
それにしても、この月の光は、先生の部屋のエレキテルに似ている。
「ああ、そうだよ。魔力の波動は電光に似ているんだ。だから電光を吸うと力が回復する。我々の世界に存在するものは、どんなものでも多少の魔力を有している。ことに月は強い魔力を持ち、ふりそそぐ光が魔力のカケラとなり結晶化する。それが、この月晶石。良質のものは少ないが、よく魔術の媒体に使われる」
艶珠さまは足元に敷きつめられた緑色に光る石を、ざらりと手にすくいあげた。
「みんなクズ石だな。このあたりにある上等の石は、竜族が持ち帰っているんだろうしな。じゃあ、行くか。その竜城へ」
竜城と言うけれど、さっきから竜らしいものは、まったく見かけない。あの変な、ずんぐりむっくりした鳥みたいなものが飛んでいるだけだ。
すると艶珠さまが声をあげて笑った。
「おまえがさっきから言ってる、ずんぐりむっくりした変な鳥が、ドラゴン——竜だよ。あれでも兄上の一族だけど?」
ええッ? ウソ、ウソ。ウソや。あんなん、竜やない。竜はもっと長うて、グネグネしとるもんや——と、春は思った。
春の思いえがくのは東洋の竜だ。宝珠をにぎって雲のなかを長々と飛んでいる、アレである。艶珠さまの言うようなものは、どうしても竜とは思えない。
艶珠さまは妙な顔つきで春を見た。
「ふうん。そりゃ兄上は喜ぶだろう」
「なんでどす?」
艶珠さまは、それには答えない。
「あそこで飛んでるのは下っぱの見張りだ。
王城へ行くには、転送魔法が使える誰かに送ってもらうほうが早い。竜城は北の果ての地だからな。
転送魔法は鳥人か竜人のなかで、かなり魔力の高い者にしか使えない高等魔法だ。それも、ある一定の年齢以上にならないと使えない。プロメテウス兄上だって、あの年じゃ、まだ使えないだろう。もちろん、私は最初からムリ。竜城であの技が使えるのは、長老か伯母上だな。プロメテウス兄上の母上だ」
先生の母上……好きな人のお母さん。
しかも、魔物。
春は二重の意味で緊張した。
「センセのこと聞かはったら、心配しはりますやろな」
「さあ? それはわかんないけど、いちおう知らせておこうか。ついでだし」
ついで? 何か感覚が違う。
艶珠さまは春の手をとって空を飛んだ。
お城に近づくと、手ごろな窓から城内へ入る。窓と言っても、岩肌をカマボコ型にくりぬいただけだ。
なんにもない一室。
家具らしいものが何もない。
広いことは、やたらに広いが、見るからに、さみしい。
窓のむかいがわにドアのない出入り口があり、ろうかが見えている。
「なんや、さみしいお城でんなぁ」
「竜人たちは寒いのが苦手なんだ。もっと地下の地熱であたたかいところに集まってる」
そう言って、艶珠さまは、くくく、と笑う。
「ここ、誰の部屋だと思う? 兄上だよ。プロメテウス兄上。我らが長兄殿は、一族から離れて、ただ一人、孤独を友にしていたのさ。長なのに」
ずいぶん長いこと艶珠さまが笑い続けるので、春は先生が気の毒になった。
「こない、誰もいーひん、なーんもないとこで、ひとりぼっち?」
「好きで、そうしてたみたいだけど?」
春は先生が暮らす土蔵を思いうかべてみた。家具こそ置いてあるが、やはり、ここに似ている。暗く静かで、世界中に自分一人だけしか存在しないみたいなところが。
「……こんなん、さみしすぎやん。センセ、あかんわ。せっかく家族とおってやのに、もっと仲ようせな」
艶珠さまは何も言わない。
肩をすくめたあと、ぽんと、少女の姿に化身する。ごうかな振袖姿には、妖艶な美青年もいいけれど、やはり優美な美少女のほうがふさわしい。
それにしても、なんで、いきなり姿を変えたのだろう?
すると、そのあとすぐ、ドタドタと足音がして、男が一人やってきた。
春は目をみはった。
扉のない出入り口からかけこんできたのが、先生だったからだ。
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