五章 天つ風 雲のかよひ路 吹きとぢよ 3—2
艶珠さまはイジワルな顔をする。
「なんで? 人殺しは嫌いなんだろ?」
「それは……」
先生がお咲さんを殺した……その事実は悲しい。できれば知りたくなかったし、今でも信じられない。
しかし、春は、先生が生まれ故郷を守るために、命がけで戦っていることも知っている。きっと、咲を殺したことにも、先生には重大な意味があったのだろう。
あのときは、つい感情的になってしまったけれど……。
「うち、センセは喜んで、お咲さんを殺したんやないと信じます。どうしても、しかたなかったんやって。せやから……」
「だからぁ。私も兄上も悪魔なんだよ。私たちは人間の本能的欲求から生まれた。欲望のままに生きる。人間の倫理観にはしばられない。でも、まあいいや。そこまで信じこむバカさかげんに免じて、ゆるしてやるよ」
くるっと背をむけて、艶珠さまは階段をおりていく。
春もあとを追った。
「あのぉ……お父上に事情を話したら、助けてもらえるどす?」
「さあね。それは父上しだい」
「……センセは、大事ないんですやろか?」
艶珠さまは、だまりこむ。
階段の一番下におりるまで無言が続く。一階の洋間に入り、ようやく口をひらいた。
「あの世界から出る前、北海の氷が急にカビに変わったろ? あの時点で、北海はヤツらの国の組成に変化したということだ。つまり、あの世界は、闇の国とは別のスピリチャルワールドになった。あの世界に存在するだけで、私や兄上の精神は打撃を受ける。私は短時間で戻ってきたから、多少の魔力をうばわれるだけですんだ。だが、兄上は……」
「ど……どないなるんどすえ?」
「精神性を破壊されて消滅するか、発狂するか。最悪、むこうの世界の精神性に再構築される。まったく別の——むこうの住人になってしまう。姿形も変わるだろうし、会っても、私のこともおぼえていないだろうな。もしそうなると、兄上は強いだけに、やっかいだ。こっちにとって、ひじょうに手強い敵になる」
艶珠さまは暗い口調で語りながら、壁にかけられた絵の前に立つ。最初から飾られていた岩山の絵だ。
でも、以前は紫色の月が描かれていたはずなのに、今は紫というより青……いや、あきらかに緑色に見える。
でも、それより気になるのは……。
「そうなってしもたら、もとのセンセには戻れまへんのん?」
「いや、むこうの世界で存在していくために、むこうの精神性に順応したわけだ。もしも、わずかでも核となりうるものが残っていれば、なんとかなるかもね。闇の国へつれ帰れば、こっちの組成に戻るだろう。ただ、そうなっても、おそらく、すっかり以前どおりの兄上にはならない。闇の国の生き物として復活できたとしても、失われた記憶や魔力は戻らない。
そのときには、兄上は完全な精霊に先祖返りするだろうな。精霊のことは兄上から聞いたか? 意思も思考も自我もない、意味もなく、そのへんをうろつきまわるだけの下等な生き物だ。生きているってだけの、ゴミみたいなね。兄上のそんな情けない姿を見るのは、さすがに忍びない」
生きているだけの、ゴミみたいな……。
イヤだ。先生がそんなふうになってしまうなんて、考えたくもない。
春がゾッとしていると、艶珠さまは背後を指さした。艶珠さまと春のあとから、人間の先生がついてきている。
「だから、あいつが、すごく重要なんだ。兄上にもしものことがあれば、あいつだけが兄上の記憶を持っている。記憶は我々にとって、魂の形だ」
精神的な存在である先生たちには、人間の春より記憶が重要なのだろう。
人間の先生は、いつもの無表情で告げた。
「私はここで待っている。私が闇の国へ行っても、なんの役にも立つまい」
艶珠さまは、いんぎん無礼な調子で言った。
「そりゃそうです。闇の国へ帰れば、この機会に王太子を暗殺しようという者が、必ず現れますからね。私にしたって、二人も無力な人間を守りながらは歩けない。ねえ、兄上。さっきは痛い思いをさせて、ごめんなさい。あなたにまで何かあると、我々は困るんですよ。すぐに帰りますから待っていてくださいね」
王太子のピンチだから抹殺しようとは、やはり出門さまの国は恐ろしい。
それにしても、どうやって闇の国へ行くのだろうか?
「ああ、ここから行くんだよ」と、艶珠さまは言い、金色の髪にさした花かんざしの一つをぬきとり、すっと春の髪にさした。
「いいか? 春。これはお守りだ。これを外したら、おまえは闇の国では、たちどころに老婆になって死ぬ。時間の流れる速度が違うからな」
「へ、へえ……」
そんなことを言われれば、ドキドキだが、先生を助けたい気持ちは変わらない。
「じゃあ、行くよ」
艶珠さまは片手で春の手をとり、岩山の絵のほうへ、すっと、もう一方の手を伸ばす。
春は自分の体がちぢんで、絵のなかに吸いこまれていくような、異様な感覚におちいった。
微笑をふくんで見送る先生の姿が、にわかに、かすんで、ぼやけていった。
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