五章 天つ風 雲のかよひ路 吹きとぢよ 3—1
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「……春?」
ゆり起こされて、春は気づいた。
あたりは、やや薄暗い。が、真っ暗闇ではない。エレキテルに照らされる室内だ。
先生の住む蔵の二階の座敷。
春をのぞきこむ先生のおもてが、目の前にある。
「センセ——」
よかった。ちゃんと、センセも戻ってこられたんや。
そう思うと涙がこみあげてきた。が……。
違う。それはオリジナルの先生ではない。人工的に作られた、人間の先生だ。
「……センセは? ほんもんの、おりじのセンセは?」
人間の先生は難しい顔になる。
「死んではいない。死んだのなら、分身の私が感じないはずはない。たとえ、オリジナルが異次元にいようとだ。同調は切れたが、おそらく、それは、あれが自身に硬いガードをかけたせいだろう」
やっぱり、あれは本当のことだったのだ。
先生はあっちの世界に、たった一人で残されてしまった……。
「わかっているんだろうな? おまえのせいだぞ」
別の声がした。
見ると、階段のあがりはなのところに、西洋あんどんをかかえこんだ艶珠さまがいる。
着ているものこそ、さきほどまでと同じ
やはり、男だ。あでやかさ、優雅さ、肌のなめらかさはそのままで、とびっきりの美青年に変身している。
いや、あのとき化身と言っていたから、少女の姿のほうが、魔法で作った、いつわりの姿だったのだろう。どおりで抱きしめられるとドキドキするはずだ。
「おまえが私をつきとばしたりしなければ、三人とも帰ってこられたのに」
そう言われると、謝罪の言葉もない。
「す……すんまへん。うち、センセがお咲さんを殺めたて聞いて、つい……」
「だから、何度も言ってるだろう? 私たちは悪魔なんだ。人くらい殺すさ。人間だって人間どうしで殺しあうじゃないか。何が悪いって言うんだ?」
「え……艶珠さまとは、一生、わかりあえまへん」
艶珠さまの目が蛇のように陰険になった。
春はだまりこんだ。
全身の毛がそばだっていく。
「……いい度胸じゃないか。私を本気で怒らせたいのか?」
声まで低く凄みがある。
春がふるえていると、人間の先生が口をはさんだ。
「エンデュミオン。そのへんにしておけ」
言われて、艶珠さまは、ほこさきを変えた。いきなり人間の先生にとびかかっていく。青年と言っても、見ためは、とても、きゃしゃなのに、六尺ゆたかな先生が、あっけなく、その下に組みしかれる。
艶珠さまは先生の胸ぐらを両手でつかみ、叫んだ。
「兄上でもないのに、私に命令するな!」
人と魔物の力の差だろうか。
先生は艶珠さまの細腕に首をしめられ、みるみる顔が赤くなっていく。
苦痛の表情で眉をよせる先生を、艶珠さまは、妖しいほど美しい悪魔の笑みでながめる。
「……やっぱり、ゾクゾクするね。兄上と同じ顔、同じ声。なのに、この私にすら、かなわない」
艶珠さまは先生の着物のえりをひきさき、くちびるに吸いついた。ただ接吻したわけではない。先生の口の端から血のすじがあふれだしてきた。かみついたのだ。その血を舌でなめとると、ようやく、艶珠さまは先生を離した。
「殺しはしないさ。今、兄上にもしものことがあれば、兄上の記憶を所有しているのは、おまえだけになってしまうからな」
そして艶珠さまは、ぷいっと、あんどんのところへ帰っていく。
春はしかめっつらをしている先生に近よった。
「センセ。平気どす?」
「舌をかまれた。が、たいした傷ではない。二、三日で治る」
「あーん、してみなはれ。見てみますよって」
「かまわん」
「お薬はおまへんの? ハチミツでも? お医者さんでっしゃろ」
すると、艶珠さまがふりかえり、春たちを流しみる。
「それは兄上ではない。よくできた人形だ。私の兄上は、たった今この瞬間にも、消滅の危機にさらされているのだ」
つつう——と、両眼から真珠のような大粒の涙がすべりおちる。春の泣き顔をブサイクと言うだけあって、すばらしく絵になる。
「あるいは手遅れかもしれないが、私は父上に知らせに行かねばならぬ。私一人の力では、もはや、どうにもできない」
艶珠さまは口元に両手をあて、すうっと、あんどんの光を吸いこんだ。青い小さな稲妻が、艶珠さまの口のなかへ消えていく。艶珠さまは気持ちよさそうだ。
「あらかた力も回復した。春。おまえは、ここにいると、むこうの世界のヤツらに攻撃されたとき、身の守りようがない。研究所に行っていろ。あそこなら、オデュッセウスが守ってくれる」
春は思いきって言ってみた。
「あの……うちも艶珠さまについていったら、あきまへん? センセが危のうなったん、うちのせいやし、うちにできることなら、なんでもしますさかい」
急に、艶珠さまは、おもしろそうな顔つきになった。
「へえ。おまえ、ほんとに、いい度胸だな。おとなしそうな顔してるくせに、闇の国へ来るだって?」
父上に知らせることが、闇の国へ行くという意味になるとは思っていなかった。が、このさいだ。春は心を決めた。
「へえ。行かせてもらいます。うちかて、ほんもんのセンセのこと、心配ですよって」
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