五章 天つ風 雲のかよひ路 吹きとぢよ 2—3
「バカなことを言ってないで、心構えでもしていろ」
先生は冷静をとりつくろって、春を艶珠さまの手に押しつけた。
「センセ——」
「安心しろ。必ず、ぶじに、そなたを帰してやる」
そうではない。
ただ、先生と離れたくなかっただけだ。でも、それは春のワガママだとわかっている。おそいくる白カビは、ますます増えていく。これ以上、先生のお荷物になってはいけない。
「ゲートだ。いいな? 二手にわかれるぞ」
黒い渦巻きの手前で先生が告げた。
艶珠さまも真剣な顔でうなずく。
いつものようにふざけている余裕などないのだ。
三人を包む球の表面から青い炎が消える。とたんに白カビが、わッとたかってくる。
張りつかれる寸前に、球は二つに割れた。
春と艶珠さまの入った球。
先生一人の球。
先生の球は、ゲートだという黒い渦巻きのわきに、ぴゅッとひっついた。
そうしながら、春たちの球に向かってくる白カビを、先生の青い炎が竜のように伸びて焼きはらう。白と青がねじれあい、空に
やがて、青い炎が、らせんを描いて、ゲートに続く一本のトンネルとなった。
真剣な顔の艶珠さまが、春の肩を抱いて、トンネルのなかへと球を走らせる。きゃしゃに見えるのに、やけに力が強い。
それに、胸苦しいような花の香りのせいだろうか?
なんでかわからないが胸がドキドキしてくる。
艶珠さまには、男女を問わず、人を妖しい気持ちにさせる魔性の力があるのかもしれない。
春は気持ちをまぎらわすために、艶珠さまに話しかけた。
「げーとやらいうもんをくぐると、あの世とこの世を行き来できるんでっしゃろ? もしや、京の都をさわがせとる神かくしも、あの白カビはんのせいやろか?」
「ああ。そうだろうな。おまえのそばには、たいてい兄上がいるから、ヤツらは気配をつかみにくい。だから、おまえに似た感じの女を手あたりしだいに、こっちにさらってくるんだろう」
「娘さんらは、どないなったんどす?」
「本物のキーでなけりゃ必要はない。そのまま放置されて死んだだろうな」
残酷なことを、さらりと言う。
春は気が重くなった。
「ほなら、お咲さんを殺したんも、白カビはんやろか? お咲さんは心の臓をつかれて、亡うならはったんやけど……」
艶珠さまは球を飛ばせるのに必死だ。ほとんど無意識のようすで叫んだ。
「あの女を殺したのは兄上だよ。キーの身代わりになんてなられたら、歴史がどう変わるか、ますます、わからなくなるじゃないか!」
先生が、咲さんを——
「ウソやッ!」
春は思わず、艶珠さまをつきとばしていた。二人のまわりの球がはじけ、春と艶珠さまは雲海のような白カビのなかへ落ちていく。
「エンデュミオン! 春!」
先生の叫び声が聞こえる。
艶珠さまは、すぐに春をひきよせ、再度、二人のまわりに球を作った。
けれど、その守りは以前ほど強くない。白カビにたかられて、次々に穴があいていく。気持ちが乱れて、うまく態勢がととのえられないのだ。
球のなかに白カビが侵入する。
目の前が真っ白になった。
意識が薄れそうになったとき、誰かの手が力強く春をとらえた。
先生だ。片手に一人ずつ、春と艶珠さまをつかんでいる。艶珠さまは気を失っている。あでやかな姿が、少女から二十歳くらいの青年に変わっていた。
「艶珠さま……?」
気絶している艶珠さまのかわりに、先生が答える。
「少し魔力を食われただけだ。おかげで化身はとけたがな。このまま、いっきに行くぞ」
先生も春たち二人を助けるために、球の守りをといたらしい。三人のまわりには、かろうじて円錐状の青い炎が、カサのようにかぶっている。
炎でカビの雲海を切りさいて、先生は突き進んでいく。
途中で、艶珠さまの意識がもどった。
「……すみません。兄上」
「しゃべるな」
「突入前に化身をといておくべきだったな。いらない魔法使ってたから、ガードが薄かった」
「もういい」
艶珠さまの顔色が悪い。
ツライのか、それきり艶珠さまはだまった。
守りのない三人に、わさわさと白カビが吸いついてくる。綿毛のなかを進んでいくようで息もできない。足元にはフジツボみたいに、ビッシリと白カビが張りついている。
精気を吸いとられているのだろうか?
じーんと全身がしびれていく。
頭のなかに無数の声がひびき、春の記憶をかきみだそうとする。
春は抵抗した。
先生につかまっているのが、やっとだ。先生の手をにぎる春の手は、何度もすべりおちそうになる。
それは、たぶん、艶珠さまも同じだろう。
ようやく、ゲートまでたどりついたとき、春の意識は、もうろうとしていた。
「飛べるな? エンデュミオン」と、先生は、まず艶珠さまを黒い渦巻きのなかへ入れた。艶珠さまの体が墨につかったように見えなくなる。
それから、先生は艶珠さまをつかんでいたほうの手で、春の肩を抱きよせながら、自分も渦巻きのなかへ入ろうとした。
しかし、あいつぐ攻撃と魔法の応酬で、先生にも疲労が見えた。
そのとき、先生の手をにぎっていた春の手が、するりとすべった。そのたびに、先生は、しっかりと春の手をにぎりしめてくれていた。
だが、このときは一瞬、つかみそこなった。
先生はあわてて、春の肩を抱いていたほうの手で、春の体をゲートのなかへ押しこんだ。
春がいるかぎりゲートは閉じない——
先生たちは、そう言っていた。
キーマンである春を、春の属する物質世界が必要としているからだ。
逆に言えば、春がいなくなればゲートは消滅する。
春が先生に押されてゲートに入ったとたんだ。ゲートは急速に小さくなっていった。ゲートのあったところから、先生の手がのぞき、何かをつかもうとするように閉じたり、ひらいたりしている。
春は先生の手をつかもうとした。
だが、あとちょっとのところで、ゲートが閉じた。
先生の手が見えなくなる。
「センセ! センセェーッ!」
暗い奔流が春を包んだ。
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