五章 天つ風 雲のかよひ路 吹きとぢよ 2—2
が、そのときだ。
「——兄上ェ! 兄上?」
艶珠さまの声だ。
艶珠さまも、こっちの世界に来ていたらしい。
春はガッカリした。
せっかく、先生と二人きりだと思っていたのに。
先生はあわてて春のあごを離し、何事もなかったように、とりつくろう。
「ここだ」と、艶珠さまを呼びよせるので、春はもう一度、ガッカリした。
艶珠さまは春と先生を見つけると、だらりに結んだ蝶もようの帯を、羽のようにひるがえして飛んでくる。ふわり、ふわり、宙を舞っているところは天女のようだ。
「遅いから心配しました。早くしないとゲートが閉じてしまいそうです」
「こちらに春がいるうちは、完全に閉じはしないだろうがな」
「そうですけど、あんまり接点が弱くなると、さすがにツライですから」
「ああ」
蝶のように飛んでいく艶珠さまのあとを、春をかかえたまま先生が滑空していく。
「あの白カビはんらに捕まると、こっちゃに来てしまうんどす?」と、春は聞いてみた。
「前に水戸藩の男衆が白カビはんに囲まれて、ミイラみたようなったんどすけど」
「あれは、そなたに命の危険があったから、こっちの世界の住人が、そなたを守るために男たちを攻撃したのだろう。ヤツらにとっても、そなたは大事なキーだからな。そもそも、精神世界に物質世界のそなたは存在できない。今は私が結界を張っているが、私がそなたを見つけるまでは、ここの住人たちが守っていたのだろう」
「うちなんて、あやつって、どないなるんでっしゃろなぁ」
「それはわからない。境界線上の未来はすぐに変わる。我々にも見通すことができない。しかし、そなたがキーであることは、はっきりと感じる」
話しているうちに、ゲートというものが見えてきた。
空のまんなかに、黒い渦巻きみたいな雲がある。雲の中心に
「センセ。あれが、げーと、ちゅうもんなん?」
「そうだ。あれが、この世界と、そなたの世界をつなぐ門であり道だ。だが、まだ完全ではない。そなたたちの世界と、この世界のつながりが不完全だからだ。ヤツらは二つの世界のつながりが一時的に強くなるときを見計らって、むりやり空間をやぶって来ているようだ」
だから、出てくるときもあれば、来ないときもあるということか。
ゲートは近いように見えるが、なかなか到達しない。
しかし、このままなら何事もなく、もとの世界へ戻ることができる——と、春は考えたのだが……。
(あれ?)
気のせいだっただろうか?
今、目の前を雪が空にむかって舞いあがっていったような?
いや、気のせいではない。
雪が逆にふっている。大地から空にむかって……違う。
春は気づいた。
空にむかっているのではない。
大量の雪が、春たちにむかってきているのだ。突風にまかれたように、春たちのほうへ吹きつけてくる。
しだいに、その勢いは激しくなった。雪ばかりか、北海の氷の大地が割れ、氷のカケラが石つぶてのように、こちらへ叩きつけてくる。
春は思わず目をとじたが、氷に打たれる感じはなかった。もう一度、目をあけてみる。
すると、春、先生、艶珠さまの三人のまわりに、丸く雪のドームができている。
これが先生の言っていた“結界”というものなのだろう。三人のまわりは、先生の結界に守られているから、雪や氷がちょくせつふれてはこないのだ。
艶珠さまが言う。
「ヤツらですね」
「逃がしたくないらしい」と、先生も応える。
春は不安になって、先生にたずねた。
「どないしたんどす?」
「そなたを行かせたくないのだ。ここで私とエンデュミオンを抹殺し、そなたを手に入れたいのだろう。だが、大事ない。北海はまだ闇の国の組成に近い。ここでなら、めったなことで遅れをとることはない」
そのあいだにも、雪のかたまりが次々にドームの表面に張りつき、つもっていく。ついには表面がすべておおわれ、真っ暗になった。外がまったく見えない。
しかし、先生と艶珠さまには見えるらしかった。暗くなっても、三人を包んだ球は、一直線に進んでいく。
「もうじきゲートだ。エンデュミオン。私がゲートを固定しておく。おまえ、春をつれて、さきに行け」
「ゲートを固定するくらい、私にだってできますよ。それより、こう攻撃がきつくなっちゃ、ゲートにたどりつくまでがキツイな」
そう言えば、球の進む速度が遅くなっていた。
真っ暗で春にはわからないが、球の外の雪や氷が、いよいよ、ぶあつくなっているのかもしれない。きっと、その重圧で、球が押しつぶされそうなのだ。
「ああ、もう。うっとうしいなぁ」
カンシャクを起こしたようすで、艶珠さまが球の表面に手をあてる。すると、そこにビリリッと電光が走る。一瞬、球のまわりが炎に包まれた。
張りついていた氷塊が、ぼろぼろと落下していく。が、次の瞬間には、新たな氷が山ほど張りついてきた。
よく見ると、それはもう氷ではない。白カビだ。あの白いモヤモヤしたものが、大量により集まってきている。
「どけ——」
春をかかえた先生が、艶珠さまを押しのけ、前に出る。
先生が球に手をあてると、青い炎の輪が広がった。白カビは炎にあぶられて、泡のようにくずれていく。球の進む速度が、ぐんと速くなった。
「さすが。火竜の兄上に、炎の魔法ではかなわないな」
艶珠さまは感嘆したが、先生の表情は険しいままだ。
「だが、ゲートをくぐるときには攻撃魔法を使えない。ゲートが不安定になるからな。やはり、エンデュミオン、二人でさきに行け。悪い予感がする」
「そうですか? 兄上が、そこまで言うなら」
「安心しろ。ゲートをぬけるまでは私が補佐する」
すると、艶珠さまは、それは麗しい流し目をくれて、先生の背中によりそってきた。先生の黒髪をかきあげ、うなじに、くちびるをつける。ちゅうっとハレンチな音がする。
「好きですよ。強い男」
春は先生のおもてに、一瞬あらわれた陶酔の表情を見逃さなかった。
こんなときなのに、胸が痛む。
先生の気持ちは、艶珠さまのもの。
それは、本能……。
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