五章 天つ風 雲のかよひ路 吹きとぢよ 2—1

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 指さされて見たのは、なんとも奇妙なものだ。


 雪がふっていることには気づいていたが、足の下には、いちめん白く雪がつもっている。いや、ただつもっているのではなく凍っているようだ。

 大きく突きでた氷の山や、雪原が割れて、ぷかぷかと浮いたり沈んだりしている。その下は、どうやら海らしい。


 北極か南極でも見たことがあれば話は別だが、とうぜん、春にはなじみのない光景だ。


 先生は金緑に光る目で眼下を見おろしながら、何かを探しているように見える。


「あれがヤツらに奪われ消失した、竜族の版図はんと北海だ。北海じたいは住む者もなく、さして重要な土地ではない。問題なのは、ここが消えた原因だ。このまま放置すれば、闇の国全土が、いずれヤツらの世界に飲みこまれてしまう」


「陣取り合戦どすな。ほなら、ここは白カビはんらの世界になるんどす?」


「いや。ここがヤツらの世界なら、相反する精神基盤の世界の住人である私が存在してはいられない。今のところ、北海に変化はない。ヤツらの世界と一体化しきれてないのだ。位置的にはヤツらの世界側にあるが、組成は闇の国にあったころのままということだろう」


「白カビはんらのもんに、なってへんのどす? ほなら、なんで、わざわざ、とっていかはるんえ?」


「別の世界から持ってこられたものが、急にその世界のものになるわけではない。今はヤツらの胃袋のなかで消化中というところか。やがて組成は分解され、ヤツらの世界になじむ形へ変換される」


 つまり、今は一時的に、どちらの世界にも属さないもののようだ。


「今のうちに、とりかえしたら、ええんとちゃいますか?」


 春が考えるていどのことは、もちろん、先生も考えていたようだ。


「北海をとりかえすことは、たやすい。だが、ヤツらの攻撃を完全に止めるためには、ヤツらの世界をつぶすしかない。でなければ、またヤツらの攻撃を受け、闇の国の一部をのっとられる。そのくりかえしだ」


 一つの世界を残すためには、別の世界を消すしかないという。その決断が正しいのかどうかは、春にはわからない。


 しかし、むこうの住人というのが、カビのようなものでしかないから、あまり同情は起こらなかった。

 先生の生まれ故郷の世界が消えるかもしれないという事実のほうが、はるかに不安に思える。


「どないしたら、ええんどす?」

「それを説明しようとしたところで、そなたをヤツらにさらわれた。そなたはキーだと言ったろう?」

「へえ」


「精神の世界は、それを生んだ物質世界の念の力によって成り立っている。より多くの念の力を手に入れるためには、平行世界のなかで一つでも多くの物質世界に、我々の存在を認識させなければならない。

 我々のようなマテリアルハーフのいる世界では、マテリアルハーフ自身が物質世界に出向き、人間の心に我々の存在の痕跡を残す。

 たとえば、我々の闇の国での名前は、ギリシャ神話の神や英雄の名前が多い。私のプロメテウスもそうだ。エンデュミオン、オデュッセウス、テセウスなどな。

 ぐうぜんではない。あの神話が形成される時代の物質世界に、エンデュミオンが遊びに行ったのだ。兄弟たちの名前を使って神話になるような話をでっちあげ、人間たちのあいだに流行させた。物語は語りつがれ、神話となり、闇の国に新たな力をあたえた」


 先生の言いたいことの詳細な意味は、あいかわらず、春にはよくわからない。


 ただ、知ってほしい人のところへ行って「うちは春です。よろしゅうお願いします」と言えば、相手が自分を知ってくれる。そういうようなことだろうと考えた。


「ほなら、うちは必要ないんと違います? なんで、うちのまわりで妙なことばっかり起こるんどす?」


「我々の世界と、ヤツらの世界の発生した基盤となる思考が、正反対のものだからだ。我々の闇の国は人間の無意識下の意識。ヤツらの世界は、我らの世界と相いれない概念から成っているらしい。

 そういう世界は同一の物質世界上に根づくことが難しい。我々の領土をとりかえすためには、ヤツらが北海を奪ったときに影響をあたえたマテリアルに、こちらの影響をあたえ返さなければならない。その境界線上にあるマテリアルワールドが、春、そなたのいる世界だ。

 そして、そなたは、そなたの世界の歴史を変える可能性のあるキーマン。そなたの行動により歴史が変わる。歴史が変われば、境界も変わる。そこに根づいていた精神世界の勢力にも変動があるというわけだ。

 だから、春。そなたには、我々に有利になるよう動いてもらいたい」


 春はむくれた。

 以前、先生が春を大事だと言ったのは、それだけの理由だったのか。

 自分の生まれ故郷が消えてしまいそうだから、先生は春を必要としている。故郷をとりもどしたら、もう春は必要ないということなのか?


「どうした? 春? なぜ、そんな顔をする?」

「なんでもありまへん」


「なんでもないという顔ではないな。そなたは考えていることが、すぐ顔に出る」

「そやから、うちの考えてること、わかるんや!」


「いや、心のなかが読めるのは出門だからだ」

「センセばっかり、ズルイわ」


 ふふふ、と、先生は笑う。

 先生というより、この姿のときは、闇の国の王子と言ったほうがふさわしい。だが、表情は、いつもの先生だ。


「私が恐ろしいのではなかったのか?」

「もう、なれましたえ。平気どす」

「声がふるえている」

「センセ、ほんま、イケズやわ」

「悪魔のさがゆえな」


 先生は片手で、かるがる春を抱えている。反対のほうの手が伸びてきて、春のあごをとらえる。

 春は身がすくむのを感じたが、見あげたまま目をそらそらさなかった。


(うち、センセになら、何されても……)


 ゆるゆると、くちびるがおりてくる。

    

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