五章 天つ風 雲のかよひ路 吹きとぢよ 1—2

 *


 古来より双子は不吉だと、いみきらわれていた。

 蘭学が広まり、庶民のあいだでは迷信と一笑に付されるようになったが、格式や身分にこだわる武家の世界では、この風習がしつこく残っていた。


 将軍家も例外ではない。

 菩提寺の僧侶に、将来、二人の姫は食いあう仲になると予言されたこともあり、徳川慶勝は、ひそかに沙帆を始末することにした。まだ赤子の沙帆を臣下に渡し、殺してしまうように命じた。


 命令を受けたのが、老中の山野長信やまのおさのぶだった。

 山野はあどけない赤子を殺すに忍びなく思った。そこで、赤子を亡くしたばかりの娘のもとへひきとらせた。娘の子どもとして育てたのだ。

 数年後、このことを慶勝に疑われ、あわてて沙帆を里子に出した。


 だが、手元に残していた姉姫が、不治の病で余命いくばくもないという事情により、話が変わった。

 朝廷に嫁ぐ姫が、どうしても必要なのだ。こうなると悔やまれてくるのが、内密に始末した妹姫だ。


 ここで、ようやく、老中山野が、お恐れながらと真相を白状する。山野の罪は不問となり、至急に沙帆が呼びもどされたというわけだ。


 竜乃は花嫁修行を言いわけに、生まれ育った江戸城を出て、京で病気療養していた。身のまわりの数人の口をふさげば、誰も姫の入れかわりに気づく者はいない。


 けれど、二条城での暮らしは、沙帆にとって苦痛以外の何ものでもなかった。きびしい行儀見習いに、おけいこ、武芸に和歌、宮中の有職故実ゆうそくこじつの暗記。姉姫にできたことは、すべてできなければならなかった。


 家老も奥女中も内心では、みんなが沙帆のことを見くだしているのがわかった。いやしい町人育ちがこんなこともできぬのか、竜乃さまは、いともたやすくご習得であったものをと、陰口をたたかれるのは、つらかった。


 実の親はけっきょく一度も沙帆に会いにきてはくれないし、ゆいいつの肉親の姉姫は、あれだ。


 竜乃は顔こそ沙帆と瓜二つだが、性格はずいぶん違っていた。育った環境があまりにも異なったので、気質にも相違が生じたのだろうか。


 竜乃はひじょうに気位の高い姫だった。

 幼い日から、皇后となるための気構えと教育を与えられ、容姿もいいから、甘やかされる。

 思いどおりにいかないことなんて、ただの一つもない——そんなふうに思いこんでいた姫が、とつぜん死病にとりつかれたのだ。


 輝かしい未来が終わりを告げ、地獄の苦しみのなかへ堕とされた。

 その恨みつらみを、すべて沙帆に押しつけて、竜乃は沙帆を憎んだ。

 日に日にやせほそり、みにくい骨と皮になっていく自分にくらべ、沙帆の健康がうらやましく、ねたましかったことだろう。


 沙帆の身のまわりには、つねに、どこからか姉姫の嫉妬深い目が光っていた。


 ある日のこと。

 看病のために、沙帆が竜乃の枕元についていたときだ。


「そなたは、さぞや、いい気味と思っておろうのう」


 姉姫が言いだした。


「……うちは、そんなん思うてまへん。早く姫さまに回復してもろて、もとの家に戻りたいだけどす」


「しおらしいことを言って、わらわを哀れんでおるのかえ? 心のなかでは笑うておろう。町人には夢のような御殿暮らしが、天より舞いおりてきたのじゃからのう。わらわなど、一日も早く死ねばよいと思うておるのじゃろう? ええい、悔しや。そなたになぞ、やらぬ。わらわのものは、みんな、わらわのもの。そなたに渡すくらいなら、みんな、みんな——」


 運の悪いことに、そのとき、たまたま、ほかの誰もいなかった。


 竜乃は沙帆に向かって枕をなげてきた。薬盆、水差し、あんどん。手あたりしだいに。


 夕方だから、あんどんには、すでに火が入っていた。倒れたあんどんの油がひろがったところに、ぼっと炎があがる。たちまち、姉姫のそでにも——


「誰か——誰か来てェ!」


 必死に助けを呼ぶと、矢三郎がとびこんできた。

 あぜんとしている。

 そこで初めて、矢三郎は姫が二人いることに気づいた。このときまで、矢三郎は身代わりの姫の存在を知らなかったのだ。


(……せやったっけ? 川田さまは、たしか、うちのこと知っとったはず? 口のかたい忠義者やからって、ご家老に信頼されて……)


 考えようとすると、頭のなかをグッと押さえこまれるような感じがした。


 そうこうするうちに、炎は姉姫の全身を包みこんだ。

 ぎゃああッと耳をおおいたくなる悲鳴が、しばし続いた。


 大勢がかけつけてきて、なんとか火を消しおおせたときには、竜乃は全身、焼けただれ、虫の息だった。


(ええッ? せやった? たしか、川田さまが、早うに消してくれはって、大事にならずにすんだはずやけど……)


 するとまた、ぐぐッと、何かが春を圧迫する。


 黒こげの姫は、誰の目にも姫とは思われず、忍びこんだ賊が矢三郎に討ちとられたことになった。竜乃の遺体は、ひそかにご家老の手で葬られたと聞く。


 それからは病後の竜乃姫として、ようやく庭を見るくらいは、ゆるされるようになった。


 沙帆のゆいいつの楽しみは、庭に面した座敷から、見まわりする矢三郎を見ること。

 矢三郎も憎からず思ってくれるのか、目があえば、ほほえみを返してくれた。

 その思いはしだいに募っていき、そして、あの桜の咲く日、約束を——


(うーん、ちゃう。ちゃう。うちの好きなんは、川田さまやのうて……)


 誰だったろう?

 記憶をふりしぼろうとすると、頭が割れるように痛んだ。


 きれぎれの映像が切り絵のように現れては消える。

 桜並木。

 きらめく水面。

 古びた翡翠ひすいのように、緑色にすける瞳。



 ——春!



 その声が、シャボンのように、あたりの景色をはじけさせた。夢からさめたように、一つの世界が目の前から消えた。誰かの手が力強く春の肩を抱いている。


 気がつくと、目の前に先生がいた。

 春の慕う、優しい、けれど冷たい、人ではない人。

 とても恐ろしい……でも、春を惹きつけて離さない人。


「先生……」


 春は先生の胸にしがみついて泣いた。


「うち、今、センセのこと忘れてしまうとこやった」

「そうだ。むこうの記憶につかまりかけていた」


 むこう? そう言えば、ここへ来る前、ややこしい話をたくさん聞いた気がするけど……。


 でも、もう今は、そんなことなんて、どうでもいい。

 もう少しのあいだ、こうして先生の胸に顔をうずめていたかった。


 これは人間の先生ではない。

 オリジナルのほうだ。


 だって、背中に羽が生えている。

 鳥のような羽毛のある翼ではなく、コウモリのそれに似た黒い羽だ。

 瞳も金緑の蛇の目。


 春の前で、この姿をとるのは初めてだ。


 それでもよかった。

 忘れてしまうことのほうが、今は、ずっと恐ろしい。


「このお姿が、ほんまのセンセなん?」


 先生は金緑の蛇の目で、春を見おろしている。


「西洋の竜には羽があるのだ」

「せやから、お名前が竜羽なん?」

「名は体をあらわすと言うからな。私は闇の王ザディアスの第一王子にして、北の果て、竜の一族の長。炎をあやつる火竜だ」


「出門さま、でっしゃろ?」


「闇の民には、そのなかに、さらにいくつかの種族がある。竜人。獣人。半人半馬のケンタウロス族。鳥人。花人。種族ごとに領土を住みわけているのだ。竜族は北方に領土を持つ。だが、つい最近、その領土の一部がこつぜんと消えた。それが陣取り合戦の幕開けだったわけだ——見ろ」


 先生は下方を指さした。

 春は気づいてなかったが、先生に抱かれて宙に浮いていた。見おろして、ようやく、そうと知った。


「あれが、その北海だ」

    

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