五章 天つ風 雲のかよい路 吹きとぢよ

五章 天つ風 雲のかよい路 吹きとぢよ 1—1

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 きゅっ、きゅっと廊下をふむたび音がする。


 やたらに長い廊下。

 この館には果てがないかのようだ。


 ふすまや格天井ごうてんじょうの天板には、金泥きんでいをふんだんに使った絵が華々しい。

 欄間らんまの華麗な彫刻。


 まさに金殿玉楼きんでんぎょくろうだ。そのへんの金持ちのお屋敷などではない。大名屋敷か、あるいは……。


 春は、その廊下にすわりこんでいた。

 なんで、こんなところにいるのか自分でわからない。

 たった今まで別のところにいたような気がするのに、頭にかすみがかかったように、ぼんやりしている。


 ともかく立ちあがり、出口を探して歩きだそうとする。


 と、そのとき、廊下の端に、ふらりと小さな火がゆれた。女が二人、こっちに向かってくる。

 一人は奥向きの御殿女中。手燭を持っている。ゆれているのは、その火だ。もう一人は十三、四の少女だった。


 春は思いだした。


(これは、あの日の……)


 洛北の小さな商家で、町人の娘として育った春のもとに、ある日とつぜん、ほんとの両親の迎えだというカゴがやってきた。


 自分を育ててくれた両親が、生みの親でないことは知っていた。

 育ての親は優しかったが、春にだけ、ほかの兄弟とは態度が違っていた。預かりもののように大切にして、どこか、よそよそしかった。


 そもそも、春はおぼえていた。

 商人の親に預けられたのは、春が五つのときだった。

 その前は、どこかのお武家のお屋敷のようなところにいた。

 そのときのお武家の親ですら、春の実の親ではなかったような気がする。


 まるで人目から隠すようにして育てられた。幼かったから、それを不思議にも思わなかったが。


 五つの年に商人の親に預けられ、一家は逃げだすように京へ移った。


 迎えのカゴが来たとき、育ての親は、こんな日が来ることがわかっていたような顔をしていた。ほんの少しさみしげではあったが、とりみだしもせず、春に家のなかで一番、上等の晴れ着を着せた。


 とつぜんのことに、ろくに別れも言えぬまま、春は住みなれた家を去った。もう二度と、その家に帰れないことは、薄々わかっていた。せめて、実の親が自分を可愛がってくれることを願うことしか、春にはできなかった。


 そして、つれられてきたのが、このお屋敷だ。

 屋敷の門のなかまでカゴでつけられたので、そこがどこなのか、春にはわからない。とにかく、どこもかしこも立派で、むやみやたらと広い。


 春を案内する奥女中にも、はっきりと会話をこばむようすがあって、気弱な春には問い正すことができない。


 しかし、もうじき実の親に会えるのだ。きっと春を里子に出したことだって、深いわけがあってのこと。


 長い廊下を何度も折れて、通された座敷。

 ふすまをあけたさきには、一式の布団が敷かれ、華麗な枕びょうぶで目隠しされている。

 びょうぶの手前に老人が一人、正座していた。真っ白な髪。深いしわの刻まれたおもてが、どこか暗い。かみしもはかまのお武家さまだ。


 それも大名に仕えるご家老のような、大変えらい人だと、ひとめでわかった。


 では、この人が父だろうか?

 春の親にしては年をとりすぎている気もするが。


 老人は春をしげしげと見入った。

 感心したように、うなる。


「まちがいござらん。瓜二つとは、まさにこのこと」


 春は事情はわからないものの、とにかく、老人の前に両手をついた。


沙帆さほでございます。あなたさまが、うちのほんまのおとっつぁんでございますか?」


 育ての親は江戸生まれ江戸育ちだ。その親が身分の高いお客さまに話していたのをまねて、できるだけ、ていねいに話したつもりだった。

 これまですまなかったと、泣いて喜んでもらえるとまでは思っていなかったものの、老人の態度は春をガッカリさせた。


「それがしがお父上でござるかですと? とんでもない。それがしは、あなたさまのお父上に仕える家老にすぎませぬ」


 むうっ。思ったとおり、ご家老さまだ。


「では、おとっつぁん……いいえ、ええと……お父上は、どこにいはるんどす?」


 春の京言葉を聞いて、ご家老は渋い顔になった。


「うーむ。京育ちのゆえ、いたしかたなきこととは言え、早急に矯正きょうせいしていただかぬことには。江戸育ちの姫が、それでは……」

「姫?」


 すると、ご家老はあらたまった。


「あなたさまは徳川三十三代将軍、慶勝さまが末の姫君、沙帆さまであらせられまする」

「うちが……姫さま。上さまの……」


 それで里親たちが、あんなに自分を大事にしてくれたのだ。そう思えば合点がいく。


「でも、ほなら、なんで里子に出されたんどす?」


 上さまの子どもを人知れず町人に預けるなんて、ふつうではない。

 ご家老はいっそう神妙な顔になった。


「じつは、沙帆さま。あなたさまにはお姉君があらせられまする。同じ年、同じ日にお生まれになられましたる双子のお姉君が」


 ご家老が枕びょうぶをどけたので、沙帆は息をのんだ。


 布団に女がよこたわっている。

 そのおもざしは、鏡がそこに置いてあるかのように、自分にそっくりだ。

 だが、その顔のなんという、やつれようだろうか。うら若き乙女とは、とうてい思えない。くぼんだ目の下に、くっきりと黒いかげり。顔色も悪く、寝汗をかいて、とても苦しそうだ。


「あなたさまのお姉君、竜乃さまにございまする。見てのとおり、姫さまは長うはござらん」


 長くはない——それは、しろうとの沙帆が見てもわかる。ようやく再会した肉親は死の床にふしていた。


 ご家老は、まっすぐに沙帆を見て告げる。


「沙帆さま。あなたさまには、竜乃さまとして生きていただきたい」


 これには絶句した。

 ついさっきまで、自分が双子だということすら知らなかったのに。

 つまり、病気で死にかけた姉姫の身代わりとして、沙帆は呼びもどされたわけだ。


 沙帆がだまりこんでいると、寝入っているとばかり思っていた竜乃が目をあけた。死相の浮いたおもてのなかで、両の目だけが異様な光をおびている。


 竜乃は沙帆に気づくと、ぎりぎりと、くちびるをかみしめた。


「じい。あまりではないか。わらわは、まだ生きておるぞ。はや身代わりをつれまいるとは……」


 ご家老はあわてて、病床の姫をなだめる。


「姫。なにとぞ、お静まりを。お体にさわりまするぞ——多絵。沙帆さまを別間へおつれもうせ」


 沙帆を案内してきた奥女中が廊下にひかえていた。

 沙帆は急ぎ、座敷からつれだされる。廊下へ出たところで、沙帆はふりかえった。

 姉姫と目があう。

 その氷のような視線に、ゾッと総毛立った。

    

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