四章 思ひわび さてはいのちもあるものを 3—2


 春が頭をひねっていると、先生は微笑した。


「この世のことわりの中心は、そなたたちのいる物質の世界だ。我々はマテリアルワールドと呼んでいる。それとは別の次元に、精神を基盤とする世界があった。スピリチュアルワールドだ。二つの世界は光と影のようなものだ。呼応しあって存在している。一枚の紙の表と裏。切っても切れない。たがいがあってこそ成立する。

 おまえたち人間が想像した、あらゆる精神活動上の産物は、やがてスピリチュアルワールドで凝固し、一つの世界となる。

 そう。つまり、マテリアルワールド一に対して、スピリチュアルワールドは一ではない。無数に存在する。宗教的な概念や、信仰、伝説、物語——そういったもの一つ一つが、スピリチュアルワールドとして存在している」


「ええと……河童かっぱがおるんどす?」


「そう。人間の想像するあらゆるものが、精神の世界では、じっさいに存在する。だが、それは精神世界にしか存在しない。物質の世界に現れてくることは、そのままではできない」


「でも、センセは、ここにいはるやないの。なんでなん?」


 先生は空想の生き物ではない。

 ちゃんと息をしているし、さわることもできる。


「そこだ。精神世界の産物が、物質の世界で存在するためには、ある条件を満たさなければならない。

 では、そもそも、我々の世界が、どのように形成されたのか説明しよう。我々の世界は、もともとは人間の無意識下の意識の投影された世界だった。

 我々は、我々の世界を闇の国と呼んでいる。無意識の世界ゆえ、暗く闇に閉ざされ、自我を持つ生物は、もともと存在していなかった。

 だが、あるとき、精神世界に影響を与えることのできる人間——巫子が、闇の国を呼びよせ、マテリアルワールドにぶつけた。通常はスピリチュアルワールドとマテリアルワールドが、ちょくせつ交わることなどない。スピリチュアルワールドはマテリアルワールドに、風船のようにぶらさがっているだけだ。

 だが、強力な巫子が我々の世界を呼んだために、二つの世界は交わってしまった。そのとき、世界の裂けめから、物質世界の人間が闇の国にこぼれおちたのだ。それも一人二人ではない。まるまる一国の人間が。歴史にも残らぬ超古代のことだ。

 闇の国にはそれ以前より、自我を持たない精霊が住んでいた。鳥や花や獣。そういった自然の生物の形をしたものたちだ。魔力を持つが、それを使うための思考を持たない。

 だが、そこへ人間がやってきた。精霊と人間は混血した。おそらく、精霊は自分たちの血をまぜることで、精神世界に存在しえない物質としての生き物を排除しようとした。

 そして、我々が誕生したのだ。魔力を持ち、魔力を使う思考を持ち、肉体をかねそなえた我々、悪魔が。精神世界と物質世界の両方に存在するものとして」


 空想上の生き物が、“体”を手に入れてしまった——ということか。


「そう。出門は、そのとき混血した魔物を始祖として、魔物どうしで繁殖してきた。闇の国へ落ちてきたのは西洋の人間たちだったので、我らの姿形は、あちらの国の人間に近い」


 あんどんの光にすける、先生の翡翠ひすい色の瞳は、そのせいだったのか。


 先生は続ける。


「精神世界が無数にあるように、物質世界も無数にある。並行世界というものだ。こことはよく似ているが、少しだけ違う世界。歴史の分岐点で違う流れに進んだ世界。そういうものだ。そなたたち人間には見えぬから、その存在を実感できないだろうが、たくさんあるのだとだけ、わきまえていてくれ。

 精神世界の住人は、より多くの念の力を集めるために、それらの並行世界に干渉して、一つでも多くの物質世界に、みずからの基盤となる概念を植えこもうとする。

 このとき、基盤となる概念が相反する精神世界の場合、同時には根を張ることができない。地球が太陽のまわりをまわっていると思っている世界と、太陽が地球のまわりをまわっていると思っている世界は同時には存在できないだろう?

 一つでも多くの物質世界を手に入れるためには、相反する精神世界を駆逐しなければならない。言わば、陣取り合戦だな。今現在、闇の国は、あのモヤモヤの世界と陣取り合戦をしているのだ」


 陣取り合戦——妙に納得した。

 だから、いつも、あのカビが現れると、すぐに先生が助けにきてくれたのだ。先生たち出門さまは、別の精神世界の住人であるカビのようなアレの出現を、たちどころに感知することができるのだろう。


「そのために、オリジのセンセは、くろんのセンセをいっぱい作らはったん?」

「そうとも言えるし、違うとも言える。これは物質世界で活動するための昼間の体だ」


「でも、センセはマテなんとかやから、こっちゃの世界にもおれるんでっしゃろ?」


「我々、闇の民は、長いあいだ魔物どうしで繁殖するうちに、物質としての特性が薄らいでしまった。魔力の強い者は化身できるのでな。人と変わらぬ姿にもなれるが、本性は精霊と同じ形に戻っている者も多い。スピリチュアルな存在になりすぎたのだ。

 昼の陽光は、我々の肉体の物質としての欠陥を、白日のもとにさらす。その欠陥をスピリチュアルな部分が認知すると、自己崩壊を起こす。

 端的に言えば、私のオリジナルの体は、日の光をあびると、たちどころに焼けくずれる。魔力が強大であるということは、物質世界での弱点も強いということだ」


「そんな……」


 だから、昼間はずっと、あの寝棺のなかに隠れていたのか。昼間に行動することのできる“人間”の体が必要なのか。

 だとしたら、やはり、先生のほんとうの姿は、人ではない。


「でも、艶珠さまは、昼間に歩いてはりましたえ。あれも、くろんの艶珠さんなんどす?」


「いや、エンデュミオンは母親が人間なのだ。わが父である魔王が、物質世界よりさらってきた人間の女。それがエンデュミオンの母だ。

 エンデュミオンだけは、ゆいいつ、精神と肉体のバランスが今も半々なのだ。あの完ぺきな人型。輝くブロンド。流す涙。闇の民が精霊と最初に混血したときに失われたものだ。我々にとって、あれは、失われた自身の人間性が具現化したものだ。我らの理想とする美そのもの。

 だから、闇の国で、エンデュミオンに惹かれない者はいない。それは本能的な憧憬しょうけいだ。本能には逆らえないだろう? 本能こそ、我らの存在基盤なのだからな」


 先生は皮肉な形に口元をゆがませる。


「せやけど……センセと艶珠さまは相思相愛でっしゃろ? ほなら、ええやない」


 春は涙ぐんだ。

 が、先生は、ますます皮肉な顔つきになって、声をだして笑った。


「相思相愛? 私とエンデュミオンが? まさか! エンデュミオンは底なしに渇いた砂漠だ。自分にかかわりのある、すべての者に愛されたいだけ。

 あれはな。私を二番めに好きだと公言する。こんりんざい、一番になることのない二番だ。そもそも私を好きな理由が、一番の男に似ているからなのだからな。わかっていて私には逆らえない。二番に甘んじているしかない。失うよりは……それでよい」


 先生の表情は、春が妬けるほどに切なげだ。

 春が泣きたいような、でも先生がかわいそうなような、そんな気持ちを味わっていると、とつぜん階下で、ギッと扉のあく音がした。


「オリジナルが帰ってきた。あとは彼が話す」


 クローンの先生がそう言って、部屋のすみへよける。

 同時に階段をあがって、オリジナルの先生と艶珠さまが姿を現した。

 オリジナルの先生が春を見て話しだす。


「さて、ここからが本題だ。陣取り合戦において、我々は劣勢でな。というのも、闇の民はつい最近まで、我々以外にマテリアルハーフがいて、ほかのスピリチュアルワールドが存在するということを知らなかった。陣取り合戦に出遅れてしまったのだ。ヤツらに奇襲をかけられて領土をうばわれた。早急に反撃しなければ、いずれ、闇の国は消滅する。そして、春。そなたは、この陣取り合戦のキーマンだ」


 急に名ざしされて、春は仰天した。

 たった今まで、この世とは別の話を聞いていたのに。


「うち? うちが陣取り合戦? キーって、なんなんどす?」

「歴史を変える可能性のある人間のことだ」

「うち、歴史なんて変えられまへん……」


 いや、ほんとに、そうだろうか?

 東宮の花嫁となるはずの竜乃姫の立場ならば、何かが変わるのかもしれない。


「さきほど話した平行世界のことだ。歴史が変われば、とうぜん——」


 そのときだ。

 春は自分のまわりにパチパチと火花が散るのを感じた。

 あの白いカビが大量にわきあがり、春を包みこむ。


「センセー!」


 先生の手がさしのばされるのが、もやのようなカビの向こうに、ぼやけて見える。


 あと少しで、その手にとどく。

 しかし、春の意識は急速に薄れていった。

    

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