四章 思ひわび さてはいのちもあるものを 3—1
3
五条通をすぎると、そこは見なれた京の都。血に飢えた出門さまの姿もなく、野盗もいない。
あたりは寝静まっていた。
途中まで馬車に乗せられて、あとは歩いて糸屋へ帰った。
柳の先生が糸屋の前で言った。
「そなたを今しばらく借りるむね、伝えておく。春。そなたは、さきに蔵へ行っているがよい」
こういうことがあるから、先生は事情を知っている者をまわりに置いているのだろう。
先生とわかれて一人で蔵へ入ると、とたんに心細い。
エレキテルのあんどんをつけると、白い光が寒々と室内を照らす。
その光のなかで、春は先生の部屋を描いた額絵をながめた。
この絵を見ると思いだす。
あの寝棺のなかに、よこたわっていた先生。
あれは、やはり、夢ではなかったのではないだろうか?
「あれはオリジナルが、光のあたらぬ密閉空間にかくれていたのだ。そなたが見つけてしまったので、魔法空間のなかへ場所を移した」
先生の声がしたので、春はふりかえった。
おひつの上にお盆をのせて、先生が立っている。
「夢やなかったんどすな」
「夢だと思うように催眠暗示をかけたのだが、ムダになったな。糸屋で
そう言われれば、昼から何も食べていない。急にお腹がへってきた。
「へえ。もらいます。うちが運びますよって。二階にしまひょか?」
「そうだな」
二階の畳の間のほうが、春は落ちつく。
座敷に入ると、さっそく、おひつのご飯をよそった。急須も盆にのっていて、熱い煎茶が入っていた。京菜とおあげの煮つけ。お茶漬け
春が作った茶漬けを、さらさらと先生がかきこむ。
それを見るのが嬉しい。
こうしていると、先生はやっぱり先生で、今日一日のことは、すべて本当のことではなかったのだという気がしてくる。
「センセ。どないだす?」
「うむ。うまい。そなたも食え」
「へえ。いただきます」
さしむかいで一つ膳をつついていると、もう何も聞かなくていいから、ずっと、このままでいたいという気になる。見なれた日常のなかへ、そっと帰っていきたいと。
だが、今さら、あとへはひけないこともわかっていた。
二杯めの茶漬けを食べたあと、先生は口をひらいた。
「この体は人間ゆえな。人と同様に食物もとらねばならぬ。睡眠も必要だ。オリジナルの私は何も食さず、睡眠をとらずに生きていける。むろん、あれも生命体ではあるから、多少は必要だが、人よりも、その頻度が、きょくたんに低い。足りない部分は魔力を活力に変えて補うこともできる」
「まりょく……」
「そうだ。私たちの存在そのものであり、体を構成する主要な半分の要素だ。人間で言う精神力にあたる。魔法を使うための力だ。魔力は生まれたときに、将来、どこまで強く成長するかが決まっている。私は私の世界で、父に次ぎ、二番めに強い魔力をそなえている」
「でも、ここにいはるセンセは、そのお力ないんでっしゃろ?」
あの怖い感じがしないのは、そのせいだろうかと思う。
「魔力とは精神の力だ。人間のバイオテクノロジーは、しょせん物質の分野での研究だ。人間の技術で人工的に造られた私は、魔力を持つことができない」
「ほなら、なんで本物のセンセと、べっこにいはるのに、本物のセンセと同じこと、なんでも知ってはるん?」
「記憶処理をされているからな。必要な知識は睡眠学習でインプットされる。それに、私とオリジナルは同調魔法によって、つねに自我を共有しているのだ。私が見聞きしたことは、オリジナルも記憶する。反対に、オリジナルが感じることは私も感じて記憶する。むしろ、私はオリジナルの手足で、オリジナルが私をあやつっているのに近い。体は別々だが、心は一つなのだ」
春はドキリとした。
「……ほなら、うちに優しくしてくれはったのも、オリジのセンセのお心やのん?」
先生は何かを言いかけて、やめた。
湯のみを手にとり、春のいれたお茶を口にする。
春はいたたまれなくなった。
「うち、オリジのセンセに悪いことしてしもたやろか……」
先生は湯のみを盆に置いた。
「それは私にもわからぬ。私の記憶はオリジナルのすべてを刷りこまれているわけではない。あれの寿命は長いからな」
「一万さいと聞きましたえ」
「一万と二千さいくらいではないかな。それでも、あれの寿命の十分の一も生きていないだろう。私にインプットされた記憶は、そのごく一部だ。感覚を共有しているゆえ、感情は一致するが、オリジナルが感情を抑えれば、こちらには伝わらない。まして、オリジナルにとって都合の悪い記憶を私に写しはしない。たとえば、心の傷などは」
そう言えば、深い悲しみに沈んだ目をするのは、いつも、あっちの先生だ。
オリジの先生は恐ろしい。恐ろしいけれど……。
「センセ。さみしそうやった……」
クローンの先生は、それについては何も語らなかった。急に話をそらしてくる。
「すべてを話すと言ったな。長くなるぞ」
「へえ。もう、覚悟、決めましたさかい」
先生は居ずまいを正す。
春も湯のみやおひつを片づけ、すみのほうに置いた。
先生の前に、きちんと正座する。
「私のオリジナルは出門だ。英語では、demon。人ではない。人間たちは古来より、我々を悪魔と呼んでいたな。だが、その悪魔が、どうやって誕生したかを知る者はいないだろう。我らは、こことは違う世界で誕生した。それは精神の世界だ」
「精神……」
「そう。人間の心のことだ」
「えッ? 人間?」
「そう。我々は人間の心が生みだした産物だ」
空想ということだろうか?
夢のなかの存在のような?
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