四章 思ひわび さてもいのちはあるものを 2—2
*
ずいぶん長いあいだ、先生は艶珠さまを抱きしめていた。誰が見ても長すぎると思うくらい。
「兄上。息が苦しい。ちょっと、やめにしませんか」
艶珠さまが言って、両手で先生を押しのける。
先生は一瞬、さみしげな目をした。が、
「あいかわらず、自分勝手なやつだな。そっちから抱きついてきたのだろう?」
とりすましたふうをつくろう。
「まあいい。それにしても、なんだ? その姿」
「振袖ですよ。おかしいですか?」
「そうではなく、なんのつもりで、わざわざ化身しているのだ?」
「えっ? こっちのほうが似合うかと思って。それに、もとの姿で、このカッコしてたら目立ちますよ? こっちの世界では目立つなって、兄上が言ってたから」
「……それで目立たないと思っているのか?」
「そりゃあ、私の生まれつきの美貌が、人間どもの注視を集めてしまうのは、いたしかたありません」
「ならば、そんなハデな振袖など着なくともよかろう」
「だって、私に似合うんです」
先生が絶句した。
沈黙の数瞬のうちに、何か、あきらめがついたのだろう。ため息をついている。
「……もういい。なんの用で、ここへ来た?」
「いつもの中間報告ですよ。でも、兄上は私に感謝しなくちゃいけないんですよ? そのおかげで、キーマンを助けることができたんだから」
「キーマンだと?」
周囲を見まわして、先生は、やっと春に気づいた。
こめかみを押さえて、艶珠さまをにらむ。
「エンデュミオン。きさま……」
「何をおっしゃってるんです。一人で五条あたりをうろついて、下級の獣人に食い殺されそうになっていたんですよ。ほら、これ——」
と、艶珠さまは赤い長じゅばんが目に焼きつくほど胸元をくつろげた。はさんでいた懐紙をとりだす。見れば、春が裏に書き置きしてきた矢三郎からの文だ。
先生はそれを読んで、だいたいの事情を察したようだ。
「……私の手落ちだ。春、そなたは糸屋へ帰れ。ここで見たことは忘れるがいい」
そんなことを言われたって、忘れられるはずもない。
あまりにも何もかもが“せんせーしょなる”だった。
先生は出門さまで、人の肉を食べるし、偽物を作って人間のふりをしながら、おかしなカガクとかいうもので、日の国を欲しいままにしているのだ。
「うち、もう、何言われても、おどろきまへん。ほんまのこと教えとくれやす。全部、全部、教えとくれやす」
涙がボロボロこぼれる。
艶珠さまに笑われた泣き顔を先生に見られたくなくて、春はたもとで顔をおおった。
すると、先生のため息が聞こえる。
「知りたいか?」
こくんと、うなずく。
「よかろう。何もかも話そう。だが、まずは場所を移すか」
春がたもとのすきまから見ると、先生は台の上から立ちあがる。
先生は長じゅばん一枚だ。
すかさず、艶珠さまが、自分のまとった打掛けを着せかける。
華々しい玉虫色に金糸銀糸の桜もよう。女物の大振袖が、ちっともいやらしくなく、先生に似合っている。女装というより、晴れ着を着た前髪の若衆のようだ。
「ほら、兄上だって似合う」
「くだらん」
「あっちの一千さいくらいの少年の兄上のボディ、私にくださいよ。そしたら、毎日、着せかえて遊ぶのにな」
「どうせ、着せかえだけではあるまい」
「当然でしょ? 魔力を封印された兄上なんて、そりゃもう遊びがいが……ゾクゾクする」
先生は艶珠さまを無視して、帯をしめた。女物だが、大きめの打掛けなので、着丈もちょうどいい。
もう一人の“くろん”の先生には、春が今朝、出しておいた
やっぱり、こうして見ても、どっちがどっちか、わからない。
「あのぉ、聞いてもよろしおすか? これまで、うちとおるときのセンセ、どっちゃやったんどす?」
桜の先生と柳の先生が、同時にふりかえる。寸分たがわぬ仕草で、薄気味悪い。
桜の先生が口をひらく。
「初めて会ったときは、私だった。そなたが蔵のなかで、向こうの住人にひきこまれそうになったあと、電気エネルギーを吸収しているところを見られたな。それ以外は、ほとんど、そっちだ。そっちは私の昼間の体。そなたに会うときは、たいてい昼だからな」
「昼間やと、なんでどす?」
桜の先生が近づいてきて、春の口を手で押さえた。指さきがふれたとたんに、ぞおッと鳥肌が立っていく。
(あ……なんや、わかる。こっちゃのセンセ、怖い)
ときおり、先生が別人のように恐ろしく見えたわけが、今、わかった。
「初めから話さねば、わかるまい」
先生が春の肩を押そうとした。
思わず、春はよけた。
先生は一瞬、春の肩にかけようとした自分の手を見つめる。
それから——
先生のおもてに、春が見たこともないような凄惨な笑みが刻まれた。
「私が恐ろしいか」
先生は強い語調で吐きすてた。
春の目の前で、その手をにぎりしめる。爪が肌にくいこみ、血がにじみだす。春はふるえあがった。
先生が手をひらいたとき、手のひらに四つの血のすじが流れていた。しかし、それは瞬時にふさがっていった。血のあとだけが、そこにあった傷を物語っている。
「私は、人ではないからな」
そう言った先生の瞳は緑に変わっている。
いつかの夢のなかで見た、あの色。
恐ろしい。けれど、その内に深い孤独をかかえたような……。
春は自分が心ないことをしたのだという気がした。
先生をひどく傷つけてしまったような……そんな気がする。
(でも、センセかて、うちのこと好きやないくせに……)
先生のとなりに、いつのまにか艶珠さまが歩みよっていた。傷ついた先生の手をとり、その手を自分の口元へ持っていく。
そして、とつぜん、先生の血をぺろりとなめる。艶珠さまの麗しいおもてが、官能にしびれたようになる。
血に酔っている。
「……いいですね。兄上の血」
「消失点は見つかったのか?」
「ああ、まだ……もう少し、あなたの血をわけてくださいよ」
「そなたの血と交換ならな」
信じられないことに、
あさましく、いまわしい、その姿。
「あれが私の本性だ」
春のとなりに柳の先生が立っていた。
「さあ、見たくなければ来るがいい」
「どこへ行かはるん?」
「糸屋へ帰るのだ。正確には私の蔵だな。ここでは、そなたが安らげぬだろう」
こっちの先生は、いつもの先生だ。
春は緊張の糸が、いっぺんにゆるんだ。
先生の胸にしがみつく。
先生は皮肉な顔をして、春の肩を抱いた。
「オデュッセウス。送ってはくれぬか。この体では、夜のこの区域をぶじに通ることもできぬ」
浅黒い肌の出門さまを呼びよせる。
その男も血の匂いに酩酊したような目をしている。が、物腰だけは、ていねいに頭をさげた。
「さもありましょう。下級の者たちは見さかいがありませんからな」
ぺろりと、くちびるをなめるので、この男だって充分、危険な気がした。
「大事ない。オデュッセウスは一流の戦士だ。このていどの血の誘惑に負けはせぬ。我らの種族は欲望に忠実なのだ。なにしろ、精神の肉体におよぼす力が、人の比ではないほどに強い。ゆえに魔力の低い下級の者ほど、欲望を抑えることが難しい」
先生はエレキテルの光に、ほんのり緑にすける瞳で、春をのぞきこんだ。
「マテリアルハーフ——と、我らは自身を呼んでいる」
まてりあるはーふ……。
不思議と耳について、離れない。
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