三章 長からむ心もしらず黒髪の 3—2

 *


 先生が出門さま——

 春の恋した人は、人間の血肉をむさぼる化け物だった……。


 この事実に、しばらく春は茫然自失した。


 春の目の前で水戸藩の男が三人、全身をひきさかれ、むさぼりくわれたのは、ついさきほどだ。あの恐ろしい悪鬼どもと、先生が同じもの……。


 それは、たしかに先生が並みの人間でないことは知っていた。でなければ、一度、死んだのによみがえるなんて、そんなことが起こるわけがない。


 だからと言って、それが出門さまだとは思ってもみなかった。

 先生は聡明で、端正で、それに優しい。とても人肉をむさぼる悪鬼とは思えない。


 それとも先生も、春の知らないところで、鬼の顔を見せているのだろうか?

 あの美しいくちびるを血にぬらし、人の肉をはんで……。


「おい、女」


 物思いに沈んでいた春は、あわてて顔をあげた。


 ここは馬車というもののなかだ。

 艶珠さまが呼んできて、春を押しこんだ。むかいには艶珠さまがすわっている。


「へえ。な、なんどすか?」


 ビクビクして答えると、艶珠さまは天女みたいなおもてを、つんとそらした。


「さっきから、うっとうしい」

「へえ?」

「悪鬼だの、化け物だの、失礼だぞ。こんなに私は美しいのに」


 変やなぁ。なんで、わかったんやろ? うち、なんも言うとらんのに。

 出門さまに化け物やなんて、たとえ、ほんまのことでも恐ろしいて言えへんわぁ。


 という心の声が聞こえたように、艶珠さまは顔をしかめた。


「言っとくけど、おまえは私の嗜好しこうから言うと年をとりすぎている。私は三さい未満の幼児の生き血しか飲まないんだ。おまえなんか、おそうわけないだろう?」


 さらりと恐ろしいことを言う。


 春はできることなら、今すぐ糸屋に帰りたいのだが……。


「あのぉ、どこに行かはるんどす?」

「もちろん、研究所だ。七条大門のなかにある禁域だよ」


 もしや、そうかとは思っていたが、あれこれショックなことが多すぎて、もう反応できない。


 すると、艶珠さまが笑った。


「おまえをつれていって実験するんだ。生皮をつまさきから、ちょっとずつ、はいでいこうかな。それとも針を一本ずつ刺していくとか。一万本ね。それで丸三日、生きていたら、おまえの勝ちってのは、どう?」


 ビードロのように澄んだ水色の瞳でのぞきこみながら、世にも禍々しいことを言う。

 これは、まぎれもなく悪魔なのだ。

 こらえきれなくなって、春は泣きじゃくった。


 すると、何がおかしいのか、艶珠さまはゲラゲラ笑いだす。


「おまえの泣き顔、すっごく、ブサイク!」


 お腹をかかえて笑っている。


(なんや、うち、艶珠さまに嫌われとる気ィするわぁ)


 しょぼくれていると、艶珠さまが追い打ちをかけてくる。


「べつに人間なんて、一体ずつ好きになったり嫌いになったりしないさ。おまえだって、犬猫の区別なんて、ろくにつかないだろ?」


 これは、ショックだった。

 出門さまにとって、人間は犬猫なのだ。


 艶珠さまや先生は人と同じ姿形をしているから、そんなふうに思われているとは考えていなかった。

 対等ではないまでも、何かしら心の通じあうものではないかと、勘違いしていた。


 でも、犬や猫なのだ。

 だから殺しても心が痛まないし、その血肉を食らうこともできる。

 ときに優しい言葉をかけ、愛でることがあったとしても、それは彼らにとって、飼い猫をなでるのといっしょなのだ。


 いや、もしかしたら、犬猫どころか、アリやイモムシと同じなのかもしれない。だとすれば、そこに愛情が通うはずもない。


 人間を殺めることが悪ですらない。

 人間の善悪を完全に超越している。

 性癖の違いは、種族の違いだとしか説明ができない。


(先生も……)


 先生にとって、うちは、そういうもんやったんや……。


 男女の情けと言われて、先生が困りはてるはずだ。

 春だって、雨にぬれて、かわいそうなので、抱きあげたノラ猫が、急に人間の言葉をしゃべりだせば、ビックリする。ましてや、春のことを好きだと言いだせば。

 そんなことも知らず、自分は先生にとんでもないことを言ったのだと、春は思い知らされた。


 涙と鼻水がいっしょくたになって、あふれる。自分でもブサイクだと思う。


 艶珠さまは春が生皮をはがれると思って泣いていると考えたようだ。


「ただの冗談だ。私がおまえをいじめたみたいじゃないか。泣くなよ」


 すっと手を伸ばしてきて、春の涙を指さきですくう。


 その指をぺろりとなめたのは、春の血を味見したのかもしれない。出門さまの涙は血らしいから。


 先生の手は冷たいのに、艶珠さまの手には人肌のぬくもりがある。


「早く兄上に会いたいから、つれてきたんだ。なかに入りたくないなら、ここで待っていればいい。帰りは兄上がつれて帰るだろう」


 馬車が止まった。

 外で地鳴りのような音がする。

 七条大門がひらいたのだ。


 やがて、また馬車が動きだす。


 周囲の音が変わった。

 遠くで聞いたこともないような楽器の音がしている。それと溶けあうように、低くうなるような音、鐘の鳴るような音、人の話し声も聞こえる。


 とつぜん、とてつもなく大きな声がした。

「業務連絡をいたします。第二研究所の山本さま。至急、研究室にお戻りください。第二研究所の——」


 ビックリして、春は耳をふさいだ。


「あれは、ただの所内アナウンスだ。ここはもう研究所の敷地内だから」


 まもなく、ふたたび馬車は止まった。

 外から扉がひらかれた。

 目を射るような白い光が馬車のなかまで入りこんでくる。もう日が暮れたはずなのに、出門町のなかは太陽が沈まないのだろうか?


 春は目をあけていられなかった。

 きつく目をとじていると、艶珠さまが、せっかちにせかす。


「どうなんだ? 行くのか? 行かないのか?」


 このなかに、センセがいはる。

 うちの知らんセンセが……。


 春は決心した。


「行きます。うちも、つれていってください」

    

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