三章 長からむ心もしらず黒髪の 3—1
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「兄上は来ない。いや、来られないと言ったほうが正しいか。先日、とりかえたばかりの新しいボディがなじまないので、調整に行ったのだそうだ。知っていれば、ちょくせつ研究所に行ったのに」
声とともに人影が近づいてきた。
その姿を見て、春は息をのんだ。
なんという美しさだろうか?
その美貌は尋常じゃなかった。
華やかで典雅な目鼻立ち。
お化粧しているふうでもないのに、紅をひいたようなくちびる。白雪の肌。
まなじりの少し切れあがった大きな目は、薄紫色の瞳をしていた。
髪は金糸をすいたよう。なにやら、クルクル巻いているのを高く結いあげている。
紅毛人なのだが、うんと、きゃしゃな骨組みは東洋人にも通じる。
そのせいか、見なれない巻髪も青い瞳も、その人が西洋的な美の頂点にあることが、はっきりとわかる。
どこかおかしいとすれば、むしろ美しすぎた。
まるで、人間とは思えないのだ。
先生を見ていても、ときおり人離れして美しいと感じるが、この人は、それが顕著だ。全身から、うっすら金色の光がさすようにさえ感じる。
この美しい人が、目もあやな晴れ着をまとっている。
一番上に玉虫色の地に桃色のしだれ桜、銀糸の雲のうちかけ。
その下に山吹色の地に大輪の
緋ぢりめんの長じゅばんは鶴もよう。
帯は黒を基調にした蝶文様の
帯どめには南蛮風の大きな緑玉だ。
大名の姫君のようないでたちである。
しかし、華美に見えるきらびやかな衣装にも、その美貌はまったく、ひけをとらない。
これはもう、断じて人ではない。
天人か観音さまか、そんなたぐいのものだ。
その人は赤い
近づくと、背丈がそうとうある。厚底のおこぼをはいているから、六尺はこえている。
春より頭一つ高いのだが、それも、いっそ凛として見える。
ところが、
「兄上ときたら、ほんの五十年、会わないうちに、趣味が悪くなったな。ただの小娘じゃないか」
姿に似げなく、場末の商売女のような態度で、春のあごをつかみ、ながめまわす。やがて手をはなすと、男勝りに言いはなった。
「まあいい。ついでだ。つれていこう」
つきはなす力が思いのほか強く、春はよろめいた。板塀につきあたって尻もちをつく。
そのとき、やっと春は気づいた。
さっきまで舌なめずりしてさわいでいた出門さまたちが、やけにおとなしい。天人みたいなその人の前に、片ひざついて頭を低くしている。
「えんでゅ……さま」
「エンジュ……オンさま」
見あげるまなざしは崇拝の目だ。
(えん……じゅ、さま?)
南蛮の言葉で、春には、よく聞きとれない。
(えんじゅ……円寿……艶珠やろか?)
わけがわからず、ぼんやり考えていると、その人が花のような笑顔でふりかえった。
「
おどろいたことに、出門さまたちが深々と頭をさげた。
それをいいことに、艶珠さまは牛頭の出門さまの頭におこぼの足をのせた。
春はギョッとしたが、ふみにじられた出門さまは、なんだか嬉しそうだ。
「おまえたち、この女に何かあれば、兄上に殺されるぞ。これだから下等なやつらは。さっさと行け」
艶珠さまが牛頭の頭をけると、出門さまたちは、そそくさと去っていった。風の速さだ。
どういうわけか、出門さまたちは、この華やかで儚げな美少女に逆らえないらしい。最初はその美しさに目をうばわれたが、あらためて見ると、なんだか怖い。
姿形ではない。
その内面から、じりじりとハラワタをあぶるような威圧感があふれてくる。
この人は怒らせると怖い人だ。
いや、というより、もしかして、この人は……。
「あ、あ、あのぉ……助けてもろて、お……おおきに」
かなり緊張しながら礼を言う。
艶珠さまは冷めた目で、数瞬、春を見つめた。
なんとなく、蛇ににらまれたカエルの気分。以前、先生ににらまれたときも、そんな心地がした……。
「べつに感謝する必要はないさ。おまえに死なれては兄上が困るだろうから、助けたまでのこと。私としては、人間の女が下等な魔物のエジキになるところをながめるのも興趣があったのだが」
やはり、この人、恐ろしい。
春はふるえがついて止まらない。
おびえている春を見て、艶珠さまは笑った。
「それより、おまえを私の妃にしたほうが、兄上は悔しがるだろうな。もっとも、そんなことをしたら、私はあの人に半殺しにされるだろうけど。おまえは、キーだから」
——おまえは、キーだ。
それは、いつぞや、先生が言っていた。
春は息をのんだ。
覚悟を決めるために、ゆっくり息を吐く。
「……兄上って、竜羽先生のことどすか?」
艶珠さまは、すんなり、うなずく。
「あたりまえだろう?」
重いかたまりが、春の胸に落ちてきた。春はその鉛のような重いものを吐きだすようにして、さらにたずねた。
「ほなら、艶珠さまも、竜羽先生も——出門……さま、なんどす?」
艶珠さまの答えは明解だ。
「ああ。今まで、なんだと思ってたの?」
春は二の句がつげなかった。
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