三章 長からむ心もしらず黒髪の 2—2
*
背後から追っ手の足音がする。
矢三郎ではない。矢三郎の声はもっと遠くから聞こえる。近くを走っているのは、水戸の藩士だろう。
水戸藩士は春を咲だと思っている。つかまっても殺されることはないが、矢三郎のもとへつれもどされることに変わりはない。
やぶか道か見わけがつかないほどに荒れている。さっきから道らしき道がない。
春は自分が、どこへ向かって走っているのか、まだ気づかない。
いつのまにか雑木林のなかを走っていた。この林をぬけたら、大きな通りに通じていますようにと念じながら進んでいく。
ようやく、家と家のあいだの細い小路に出た。板塀に人間一人がくぐりぬけられそうな穴があいている。
ずいぶん、長いこと走っていたような気がするが、追っ手をまくことはできただろうか?
おっかなびっくり、春が板塀の穴をくぐったときだ。
どこか遠くから悲鳴が聞こえてきた。すさまじい声だ。ただごとではない。
(なんやろ? あれ……)
悲鳴は断続的にあがり、しだいに、そして急速に、こちらへ近づいてくる。
それは、まさしく断末魔の絶叫だ。
聞く者の胸を恐怖でしめつける。
すくんでいると、足音が聞こえてきた。浪人風の身なりをした男が数人、現れた。追っ手だ。
あわてて春は逃げだす。
しかし、しょせん女の足だ。みるみる差がちぢまっていく。
男の一人がサッと手をあげると、春は何かに足をとられて、ころんでしまった。見れば、着物のすそが小づかで地面にぬいつけられている。
「咲。悪あがきをするな。このときのために高い金で買われてきたんだぞ。それとも痛いめを見ねば、わからんか?」
男たちが迫ってくる。
手前に一人。そのうしろに二人。
春は小づかをひきぬいて、両手でにぎりしめた。
ここで捕まれば、もう二度と糸屋へは帰れない。
先生にも会えなくなる。
そのくらいなら……。
「それ以上、近づいたら、うち、死にますえ」
春は小づかの切っ先を自分ののどに押しあてた。
男たちは声をあげて笑う。
「しおらしいことを。きさまが、それほど、けなげなタマか。ヘタな三文芝居などよして、こっちへ来い。川田はおぬしを竜乃姫だと思っているようだがな。ヤツには勘違いさせておけ」
ふと、疑問に思う。
春はたずねてみた。
「あなたがたは、なんで、うちが竜乃姫やないと思うんどす?」
「我らは姫の死体を見ているのだぞ。心の臓をひとつきだ。あれは素人の手によるものではない。人を殺す訓練をされた者のやりくちだ」
なるほど。では、咲は人の手で殺されたのだ。春の身に起こる怪異のせいで死んだわけではない。それに、殺したのは玄人ということか。
「さあ、もうよかろう。時間かせぎは。せいぜい、川田の勘違いを利用してやれ。あの男は今しばらく使える。しばし、ヤツの女になってやればいいだけのことではないか」
そうは言われても、春は咲ではない。
さっきの男たちの言葉からもわかるとおり、咲は人を殺すための訓練を受けて育っていた。非情な世界で生きてきたのだ。
だからこそ、姫君にあこがれたのだろう。自分も姫君になってみたいと。
(ごめんやっしゃ。咲さん。うちは……咲さんみとう強くはなれへん)
春は小づかをにぎる手に力をこめた。刃のさきが、チクリと、のどにくいこむ。
そのとき、悲鳴があがった。
さっきの、あの声だ。恐ろしい断末魔の叫び。
それが春たちのすぐ背後から聞こえた。
おどろいて、春はそっちを見た。
そして——
「きゃああーッ!」
自分の口から悲鳴があがるのを、春は聞いた。
あまりの恐怖に、これが夢ではないかという非現実的な感覚がよぎる。
かえりみた男たちも、いっせいに叫び声を発する。
逢魔がとき。
たそがれの薄闇のなかに、赤い目が光る。野獣の目。飢えた獣の目だ。
それが十対ほども光っている。
どれもこれも異様な姿だ。
もりあがった筋肉が壁のようにぶあつい
出門さまだ。
出門さまの人狩りに出くわしてしまったのである。
以前、春が祇園で見た、くろがねの肌の出門さまではなかった。姿形は似ているが、こっちは生身の肌と肉がある。さけた口からは血がしたたりおちていた。
あとのことは、よくおぼえていない。
春も追っ手の男たち必死になって逃げた。
ふるえあがり、何度かころげたが、そのたびに誰かに手をひっぱられたような気がする。
春の手をひく男の背中を、出門さまの一人が、かるく爪でなでた……ように見えた。
すると、目を疑うほど大量の血がふきだし、男は地面に倒れた。
出門さまたちは、みんな、男に群がり、骨をくだき、肉をむさぼる音がひびく。
一人、また一人と男たちが出門さまのイケニエになった。
(次は……うちや……)
一番、とろいはずの春なのに、なぜか、出門さまは春をあとまわしにした。でも、それは情けや温情でないことは、すぐにわかった。
男たちがいなくなると、出門さまたちは春に向きなおり、じりじりと迫ってくる。
「女だ。若いキレイな女だ」
「女の肉が一番、うまいんだあ」
「それか、子どもだなぁ」
獣の
彼らは、とくにおいしいごちそうを楽しみにとっておいただけなのだ。
そうと知って、春はすすり泣いた。
いやや。こんなん、いやや。センセ……。
「助けて!竜羽先生ェーッ!」
すると、どこからか笑い声がした。
「兄上は来ないよ」
ショウビの花に似た、胸苦しいほどの香りが、ふわりと風に立つ。
路地の奥から、誰かが近づいてくる。
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