三章 長からむ心もしらず黒髪の 2—1

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 どこかをなぐられたのかもしれない。春は気が遠くなり、次に意識が戻ったときには、四畳半の一間のなかにいた。一方はふすま。一方は格子戸。あとの二方は漆喰しっくいのはげかけた壁。

 部屋のなかには、あんどん一つない。ロウソクをつけた手燭(持ち運び用しょくだい)があるだけだ。


 春は薄っぺらい布団の上に寝かされていた。

 どのくらいのあいだ気を失っていたのだろうか?


 幸い、しばられていない。

 今のうちに逃げだそう。


 春は布団をぬけだした。

 そのとたんに、ふすまがひらいて、矢三郎が入ってくる。ほかに人影はない。


「どこへも行かさぬぞ。沙帆どの」


 しょうがなく、矢三郎をさけて座敷内へもどる。しぶしぶという気持ちが態度で伝わったらしく、矢三郎は悲しげになった。


「かわいそうに。沙帆どの。あなたは混乱しておいでだ。きっと、なれぬ気苦労が祟ったのだな」

「うちは正気どす。言うても信じてもらえまへんやろけど、あなたさまの見たんは幻どす。ほんまのうちと川田さまは、あなたの思ってはるような仲と違います」


 矢三郎の表情がよりいっそう悲しげになるばかりだ。どう言っても信じてはもらえない。


 頼みの綱は、やはり先生だ。

 置き手紙を残してきたから、いずれは先生の目に止まる。春が帰ってこなければ、何かあったと思ってくれるはず。


 先生は、もう、あの手紙を読んだだろうか?

 ここが、まだ西本願寺のなかならいいのだが……。


 でも、寺の座敷のわりには、ここはせまい。気絶しているあいだに別の場所に移されたのかもしれない。


(センセ。助けて。水戸につれてかれたら、うち、どないなるん?)


 涙ぐんでいると、矢三郎の目つきが険しくなってくる。


「沙帆どの。誰のことを考えている? 先日の男なら切ってすてたぞ」

「おぼえてないんと、ちごたんどす?」

「気は失った。しかし、男を切ったことは事実だ。死体は庭に埋めた。もう、ジャマをしに来る者はいない」


 でも、先生は生きている。

 必ず、うちを助けにきてくれはる。


 きッと、くちびるをむすんでいると、矢三郎のおもてがゆがんだ。


「まだ、あの男を忘れられぬのか。あれほど、かたく誓いおうたものを。拙者はそなた一人がため、主君を裏切ろうというのだ。沙帆。そなたを誰にも渡しはせぬ」


 矢三郎がにじりよってくる。

 春はよこずわりのまま、あとずさった。とは言え、あまりにもせまい四畳半。あっというまに壁ぎわまで追いつめられてしまう。


「川田さま。お静まりください」

「静まるのは、あなたではないか。心を落ちつけ、とく考えてみよ。あなたは私につれて逃げてみせろと言ったではないか」


「それは、うちではありまへん。竜乃さまのほうどす」

「うむ。竜乃さまが拙者をとりたててくだされたよし、重々、承知。憎からず思うておられたのであろう。しかし、あの驕慢きょうまんの姫に、恋しい愛しいと思う男があろうか? 沙帆。あなただからこそ愛しいのだ」

「あなたさまにそう言われては、竜乃さまが、あんまり、かわいそうどす!」


 春は逃げ場を探して目をさまよわせた。壁にそって、よこに、はっていく。なんとか、ろうかへ出ていきたい。


 だが、春の考えをさきまわりしたように、矢三郎の右腕が、春の行く手をはばんで壁に押しつけられる。

 今度は反対に、はっていこうとすると、左の手も、乱暴に壁を鳴らしてつきだされてくる。

 春は壁を背に、矢三郎の両腕のなかに閉じこめられてしまった。


「沙帆どの。あなたは命を狙われ、恐ろしいめにあったので、自分がわからなくなっているのだ。心が落ちつけば、必ず思いだす。それとも、ここで思いださせてさしあげようか?」


 閉じこめていた手の片方がおりてきて、すうっと春のほおをなでた。春は鳥肌立った。

 そのまま、矢三郎の手が肩から胸元へおりてくる。


 とっさに春は叫んでいた。


「思いだしました! 川田さま——いいえ、矢三郎さま。もう思いだしました。うち、夫婦になる前に、ふしだらになるんはイヤどす。ちゃんと祝言あげてからやないと」


 もちろん、でまかせだ。

 しかし、矢三郎には効果があった。

 矢三郎は春を心から愛しあった恋人と思っている。恋しい女にそう言われては、かたくるしい性分の矢三郎には、それ以上、手が出せない。

 それでも、まだ、疑わしげな表情ではあったが。


「そんなことを言って、ただの言いぬけではないか?」

「桜の木のもとで指きりしましたえ」


 半信半疑の矢三郎を、春は見あげた。


 ここが正念場だ。

 裏切られたと思えば、矢三郎は逆上するだろう。今度こそ実力行使に及んでくるかもしれない。

 一度はいいなと思った相手ではある。だが、今、春の慕っているのは竜羽先生だ。好きな人がいるのに、ほかの男に身をまかすなんて、春にはできない。


 春は決心した。

 覚悟を決めて、矢三郎の口に自分の口を押しつける。

 あの夢のなかで、先生とかわしたくちづけは甘美だった。けれど、今はただ、ぎゅっと目をとじ、その感触をこらえるばかりだ。


 先生の南蛮時計の針が二秒か三秒、動くあいだが、三分にも三十分にも感じられた。


「——このとおり、慕うております。矢三郎さま」


 矢三郎は、しばらくのあいだ放心していた。やがて、安らかな笑みで春を見つめる。


「うむ。沙帆どの」


 信じきった顔をされると、さすがに申しわけない。


 ごめんやっしゃ。うち、ウソつきえ。でも、うちの好きなん、センセなんやもん……。


「では、帰ろうか」と、矢三郎は言う。

「どこへ帰るんどす?」

「むろん。二条のお城だ」

「でも、お咲さんを殺したんは、水戸の藩士やないんでしょう? 誰の仕業かわかるまでは危ないんやないんどす?」

「ああ、うむ。さようだったな。では、今しばらく、あなたには身をかくしていてもらおうか」


 それなら、糸屋に帰してもらえるかもしれない。

 一瞬、春は希望に胸をはずませる。

 しかし、矢三郎は、こう言った。


「ならば、水戸藩の京屋敷に身をよせておればよいだろう。ただいま、カゴのしたくをさせよう」


 そう言って、矢三郎は出入口のふすまのところまで歩いていった。そこで春をかえりみる。なんとなく、母親にすてられることを察した子どもみたいな目だ。


「……必ず、ここで待っておられよ。またたきのまに戻ってまいるゆえ」


 その表情を見ると胸が痛む。

 だましているせいもあるのだが、それだけではない感じがした。

 あるいは、先日の夢のような別世界のなかでは、自分と矢三郎は、ほんとに命をかけて愛しあっていたのかもしれない。


(かんにんえ。川田さま)


 矢三郎が出ていくと、すぐに春は立ちあがった。ふすまと反対がわの格子戸をあける。そこが窓だということはわかっていた。外は細い通りだ。

 ただし、中二階だ。かわらの落ちかけた軒庇のきびさしが目の下にある。


 庇の上までは、なんとか春でもおりられそうだ。

 しかし、そこから通りまでは二めーとるほどの高さがある。とてもハシゴなしではおりられない。


(でも、でも、水戸屋敷につれていかれたら、逃げだせへん。センセにも川田さまと水戸藩のつながりはわからんやろし……)


 急がなければ、矢三郎が帰ってくる。矢三郎には仲間がいるようだから、その男たちが来るかもしれない。


 逃げだすには、表に面した、この窓しかなかった。


 階段をあがってくる足音。

 もう迷ってはいられない。


 春は敷かれたままの薄い布団を窓から押しだした。

 そのあと、庇の上におり、布団を通りになげおろす。


 そして、えいッと、とびおりる。

 じーんと痛みが、ひざまであがってくる。


「痛い……」


 うずくまりそうになるが、そのとき、二階の座敷に人のかけこむ音がした。窓から矢三郎の顔がのぞく。


「沙帆——!」


 ひきつった憤怒の形相になっている。


 春はよろめきながら走りだした。

 春がつかまっていたのは旅籠はたごのようだ。見おぼえのない建物。現在地の見当がつかない。ただ闇雲に走るしかなかった。


 そろそろ日が暮れて見通しが悪い。


 春は自分が南に向かって……禁域の七条大門へ向かっていると気づいてなかった。

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