三章 長からむ心もしらず黒髪の 1—2

 *


「おや、今、出ていったん。お春ちゃんやったねぇ」


 昼日中だというのに、アクビをしながら出てきたのは、戯作者のお香だ。


 井戸端は長屋の女たちで、今日も大にぎわいだ。ちょうど昼ご飯のしたくどきだ。


 すると、表通りのほうから異様な歓声が聞こえる。まるで時と場所をまちがえた花魁道中でも始まったかのようなさわぎだ。


「あれ、糸屋の前に人力車が止まったみたいやねぇ」

「ほんまや。何事でっしゃろな」


 人力車は誰でもが乗れるものではない。お武家かお公家か、出門さまのお抱えと決まっている。ということは、それに関係した人物が、糸屋の門前に乗りつけてきたということになるのだが?


「糸屋さんの商いのお客さんやないの?」

「糸屋さんに、あない豪勢なお客さん、あったやろか?」

「それにしても、にぎやかどすなぁ」

「お祭りみたいやな」


 女たちは井戸端会議を続ける。

 外に出ていくのが怖いような大さわぎなのだ。祇園会の宵山みたいなにぎわいが、ときおり、ピタリと静まり、「ほう」だの「おおっ」だの、大勢が息をそろえて嘆息する。


 なにやら常軌を逸している。


 やがて、糸屋の主人の庄兵衛が、自分の着物のすそをふんでしまいそうなくらい、しゃちこばって、長屋の路地へと入ってきた。うしろにいる誰かを案内しているようだ。


 井戸端に近づいてきた、その人をひとめ見て、長屋のメンバー、あいた口がふさがらなくなった。


 ぽかんと口をあけた女たちの前を、その人は悠然と通りすぎていく。


 そして、竜羽先生の土蔵へと入っていった……。




 *


 一方、自分が出ていったあとの長屋が、そんなさわぎになっているとは知らない春。

 文に指定してあったとおり、まっすぐ西本願寺へ向かった。


 その昔、東西の本願寺は、旅人の観光や都の人々の参拝で、いつも人でにぎわう場所だった。


 二百年前までは——だ。

 今は誰一人、このあたりには近よらない。


 なぜなら、そのさきに禁域があるからだ。南北は七条通から九条通、東西は大宮通から寺町通の範囲は、くろがねの高い塀でかこまれている。その内に許可なく入ることは誰もできない。


 塀のなかには奇妙な塔が建ちならび、なかでも、キョートタワーという白い塔は、夜になると橙色の妖しい光を空になげる。


 そこは日本であって、日本でない。

 出門町と呼ばれ、悪しきウワサの絶えない場所だ。そう。出門さまたちの町である。


 だから、七条通はむろんのこと、都の人は、キョートタワーの見える五条よりも南には、よほどのことがないかぎり近づかない。


 昔の町家はすべて空き家になり、そこを賭場や隠れ家にする罪人などの、かっこうのたまり場になっている。

 雑草のおいしげる、やぶも多く、昼間でも荒寥こうりょうとしている。


 また、そのような無法地帯であるのをいいことに、夜な夜な出門さまの人狩りがおこなわれるのも、この区域だという。女が一人で歩くには、はなはだ危険な地帯であった。


 つい考えなしに来てしまった春だが、西本願寺に近づくにつれ心細くなってくる。


 まともな町家が減っていき、荒れほうだいの雑木林や、こわれた板塀からのぞく動物の死骸と言った、すさんだ景色ばかりが続く。残る町家は、どれもオバケ屋敷のようだ。


 できることなら今すぐ逃げだしたい。

 だが、目当ての西本願寺はもうすぐそこだ。

 今からまた、この荒れた通りを一人で帰るより、早く矢三郎と会って、帰りは送ってもらいたい。


 西本願寺の前に来た。

 しかし、これが音に聞く西本願寺であろうか?

 洛陽三閣の一つとまで言われた飛雲閣、華麗な日暮門——すべて荒廃のほしいままとなり、ススキがしげっている。


 怖々と、春はくずれた門から、なかへ入った。


「川田さま。申し。川田さま。おいでですか?」


 しばらく待つが返事はない。

 人影もない。


 本堂の奥まで入ってみる勇気は、とてものことない。

 春はきびすを返し逃げ帰ろうとした。


 ふりむいたとたん、ギョッとする。

 門をふさぐようにして男が立っていた。悲鳴をあげかけたが、よく見れば、矢三郎だ。


「おどろかさんといておくれやす。うち、もう恐ろしゅうて、恐ろしゅうて。早う、ここから出まへんか?」


 川田は微笑して歩みよってきた。


「女の身では、さぞや、ふるえあがる思いでしたろう。心中、お察ししますぞ」


 平静な口調に、春は心底、ほっとした。やっぱり、矢三郎は平常心をとりもどしたようだ。


「では、話とやらを聞かせてくださいまし。お咲さんを殺したのは、誰なんどす?」


 矢三郎は神妙な顔で答える。

「残念ながら、それは、まだ明らかではござらぬ。しかしながら、その娘が誰の差し金であったかは、目処がつきもうした」


「誰のどす?」

「水戸藩主、徳川諸永とくがわもろながさまをご存知か?」

「いいえ」


 そういうことには、春はうとい。

 水戸藩と言えば、徳川新御三家の一つであるとしか知らない。


 矢三郎は説明を始めた。

 その態度に、なんだか春は違和感をおぼえた。


「諸永さまは御歳六十になられます。四十年ほど前、竜乃さまのお父上であらせらるる慶勝さまと、将軍の跡目を争ったおかたにございます」


 慶勝は先代の実の子ではなく、将軍位を継ぐために養子になった。そのていどのことは春も知っている。


「諸永さまにおいては、そのときの遺恨が、いまだに失せておられぬ。このところ、水戸藩士に不穏な動きありとの調べがつきもうした。まずは姫をすりかえ、意のままにあやつる傀儡かいらいになさんとしたもよう」


 なんだか、よくわからないが、つまりは権力争いということか。なんで、えらい人たちというのは、そんなことをしたがるのだろう。


 春は吐息をついた。

「上つかたは難しいもんどすなぁ」


 言いながら、ふと気づいた。

 自分がさっき、なぜ、矢三郎の態度に違和感を感じたのか。

 あんなとき、いつもの矢三郎なら、必ずするはずのしぐさをしなかった。あの春を小バカにするような、への字口……。


 あれは、きまじめな矢三郎ができる、最大級の不満の表れだ。


 じっと矢三郎を凝視する。

 春の視線に気づいているのか、いないのか、矢三郎は気持ち悪いほど優しい笑顔だ。


「沙帆どの。こうは考えられぬか。いっそ、諸永さまの世になれば、竜乃姫の輿入こしいれはなくなる。あなたは自由になれるのだ」


 春は耳を疑った。

 忠臣の見本みたいな矢三郎の言葉とは、とても思えない。


「……川田さま?」


 あの者は心を食らわれた。もとには戻らぬ——

 先生の言葉が脳裏によみがえる。


「どうした? 沙帆どの。あの日の約束を忘れたわけではあるまい」


 正気の目をしているから気づかなかった。だが、それは、すでに、もとのままの矢三郎ではない。現実ではないことを現実と思いこんでしまった、別人の矢三郎だ。


 春はおびえてあとずさろうとした。

 すると、春の背後に複数の足音が近づいてくる。本堂のなかから、いつのまにか忍びよっていたのだ。

 春は口をふさがれ、両手をつかまれた。


 矢三郎が物悲しげな笑みを浮かべた。


「私は水戸さまにつく。あなたにも、ついてきてもらおう」

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