三章 長からむ心もしらず黒髪の
三章 長からむ心もしらず黒髪の 1—1
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近所の湯屋へならんで朝風呂に行ったあと、先生は一人で出かけていった。
春には、なんの説明もない。
あのとき死んだはずの先生が、なぜ生きかえったのか。
寝棺に入っていた先生がなんなのか。
それとも、すべてが夢だったのか。
けっきょく、わからずじまいだったけれど、春は問いたださなかった。
ただ、あれ以来、先生の部屋から寝棺が消えた。かわりに壁に一枚、新しい絵がかかった。以前からある岩山の絵のとなりに、先生の洋間を描いた油絵がならんだ。そこには室内からは消えた寝棺が描かれている。きっと、これが、あの寝棺に代わるものなのだ。
うち、もう、のぞいたりせえへんのに——と思ったが、だまっておいた。
そのことは口に出してはいけないことだと、わかっていたから。
先生は以前より留守が少なくなった。出かけるときは、春と顔をあわせてから行く。
そして帰りには必ず、おみやげをくれた。
緑寿庵のこんぺいとう。寅屋のようかん。鶴屋のとんじょ餅。べっこうのクシ。サンゴ玉のかんざし。
卯月に入って衣がえの季節になると、
黒い羽に紫のもようの蝶が飛ぶ、
南蛮渡来の手鏡に、南蛮渡来のおしろい、香水——
庭に植える、めずらしい南蛮の花を持って帰ってくれたこともあった。
「見たことない葉っぱどすなぁ。なんなん? センセ」
「
「どんな花やろ。楽しみやわぁ」
「……華やかな、大輪の花だ」
先生の瞳がわずかにかげる。
「トゲがある。気をつけろ」
春を見ながら、先生は別の人のことを考えている。
ゆっくり時がすぎていくかのような、幸福な毎日。
一度だけ、聞いてみたことがある。
「ねえ、センセ。糸屋の人たちは、どこまでセンセのこと知ってはるん?」
この日は春が洗濯物をほすのを、
春が問いかけると、吸い口から、くちびるを離し、イジワルな笑みを浮かべる。そんなことを聞いてもいいのか、と問うような目。
「あるじ夫婦は知っている。研究所で生まれたデザイナーズチャイルドだからな。ゲノム編集された優良遺伝子の持ちぬしだ」
ニヤニヤ笑いながら、意味不明のことを口走る。
春は口をとがらせた。
「センセ、うちのこと、バカにして」
「さあ、どうだかな」
あんまり、おかしそうに笑うので、春はすねた。
「そんなん言うんやったら、うち、センセの羽衣見つけても、かくしてしまいますえ」
「羽衣?」
「天人は羽衣なくしたら、天に帰れまへんやろ? センセも羽衣なくしたんかなぁって。羽衣見つけたら、センセ、天に帰らはる?」
先生は妙に納得した。
「羽衣か。まあ、そのようなものかもしれないな」
春はあわてふためいた。
やっぱり、聞いてはいけないことだったのだ。
「いやや。センセ。どこへも行かんといて。うち、もう聞けへんから!」
必死にとりすがると笑う。
先生は、つかみどころがない。
こんなこともあった。
ソウビの花が咲いたときだ。
ソウビは、それはそれは豪華な花だった。八重咲きの大輪の花は牡丹のようなのに、香りまで、むせかえるように甘い。
おかげで葉かげに大きなイモムシが、よくくっついていた。見つけるたびに、春はゾッとした。
「きゃあー! おったー! また、おった。センセ、とってえな。うち、さわれへん」
いつもの能面のような顔で、先生はイモムシを手づかみする。
「とったぞ。これをどうするのだ?」「すててぇ。みぞに流して、すてておくれやす」
「そんなに、しがみついていいのか? 虫が目の前にいるぞ」
「いややぁ。センセのイケズぅ!」
きゃあきゃあ、さわいでいるまでは、先生もご機嫌だった。だが、イモムシが水に流されて、ほっと春がひと息ついたときだ。
「ほんま、きれいな花には、ぎょうさん、虫々がつくんどすなぁ」
春の言ったひとことが、なにやら気に食わなかったらしい。先生は急に口元をゆがめた。
先生のそんな表情を、春は初めて見た。なにしろ、いつも、どんなときにも、かるく微笑するていどの先生だ。
「もうよい。どうせ、つくものなら、ほっとけばよかろう」
「そんなんしたら、すぐ虫に食われて、穴だらけになりますえ?」
「枯れるものなら枯らしてしまえばよい」
先生が、なぜ、そんなことを言ったのか、後日わかった。あのとき、先生は妬いていたのだと。
*
それから、さらに数日がすぎた。
その日、ひさしぶりに先生は朝から出かけていた。
春が一人で庭の草むしりをしていると、長屋のほうの戸がひらいて、おずおずと少女の顔がのぞいた。仕立て屋をしている文さんの娘、あきだ。あきは木戸のすきまから片手をさしだしてきた。結び文をにぎっている。
「これ、うちに?」
人見知りの少女は、蝶々まげの頭を、こっくりと一つ、たてにふる。
「あきちゃんから?」
今度は、よこにふる。
「……お武家さまやった」
お武家?
春には手紙をよこしてくるお侍など、心あたりがないのだが……。
ほんとに、そう?
あの人なら、春が糸屋に居候していることを知っている。
「おつかい。おおきに。これ、食べよし。センセにもろたんよ」
おだちんがわりに、昨日、先生にもらった飴玉をにぎらせると、あきは、すぐにいなくなった。
一人になると、春は急いで結び文をひろげた。
思ったとおりだ。
文は、矢三郎からのものだ。
あんなふうに半狂乱になっていた矢三郎だが、文をよこしてくるということは、正気に戻ったのだろうか?
ともかくも、読んでみる。
短い文章がしたためられていた。
先日は話の途中で卒倒したらしく、ごめんそうろう。気づいたときには春がいなくなっていた。咲の一件で火急の話がある。西本願寺にて待つ。
と言ったむねが書かれていた。
春は几帳面な矢三郎の筆跡を見て、ほっとした。
では、あのあと、矢三郎は正常に戻ったのだ。
異常をきたしていたときの記憶がないから、気絶しているあいだに春が帰ってしまったと考えたのだろう。
先生が刺されて死んでしまったことは、春にも説明しようがない。あんがい、あのあと、先生の死体は消えてしまったのかもしれない。
それなら、矢三郎は自分がしたことに気づくはずもないのだ。
(西本願寺なら、歩いても行けるとこや)
糸屋から二条城までの距離と比較すれば、三分の一ほどだ。女の足でも半刻もあれば行って帰れる。南蛮渡来の先生の時計で言えば、片道三十分である。
迷ったけれど、春は行ってみることにした。正気の矢三郎なら怖いことは何もない。咲のことを調べてくれていたようだし、ぜひ会って話が聞きたい。
そこで、春はもらった文の裏に、先生の机の上の羽ペンとインクで、行ってまいりますと置き手紙を書いた。
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