三章 長からむ心もしらず黒髪の

三章 長からむ心もしらず黒髪の 1—1

 1



 近所の湯屋へならんで朝風呂に行ったあと、先生は一人で出かけていった。


 春には、なんの説明もない。


 あのとき死んだはずの先生が、なぜ生きかえったのか。

 寝棺に入っていた先生がなんなのか。

 それとも、すべてが夢だったのか。


 けっきょく、わからずじまいだったけれど、春は問いたださなかった。


 ただ、あれ以来、先生の部屋から寝棺が消えた。かわりに壁に一枚、新しい絵がかかった。以前からある岩山の絵のとなりに、先生の洋間を描いた油絵がならんだ。そこには室内からは消えた寝棺が描かれている。きっと、これが、あの寝棺に代わるものなのだ。


 うち、もう、のぞいたりせえへんのに——と思ったが、だまっておいた。

 そのことは口に出してはいけないことだと、わかっていたから。


 先生は以前より留守が少なくなった。出かけるときは、春と顔をあわせてから行く。


 そして帰りには必ず、おみやげをくれた。

 緑寿庵のこんぺいとう。寅屋のようかん。鶴屋のとんじょ餅。べっこうのクシ。サンゴ玉のかんざし。


 卯月に入って衣がえの季節になると、あわせの小袖を三枚もくれた。緑の濃淡に黄色の子の入った、両子持ち縞など。

 黒い羽に紫のもようの蝶が飛ぶ、緋繻子ひじゅすの帯。

 南蛮渡来の手鏡に、南蛮渡来のおしろい、香水——


 庭に植える、めずらしい南蛮の花を持って帰ってくれたこともあった。


「見たことない葉っぱどすなぁ。なんなん? センセ」

薔薇ソウビだ。ショウビとも言う。つぼみのついているものをもらった。うまく咲くだろう」

「どんな花やろ。楽しみやわぁ」

「……華やかな、大輪の花だ」


 先生の瞳がわずかにかげる。


「トゲがある。気をつけろ」


 春を見ながら、先生は別の人のことを考えている。


 ゆっくり時がすぎていくかのような、幸福な毎日。


 一度だけ、聞いてみたことがある。


「ねえ、センセ。糸屋の人たちは、どこまでセンセのこと知ってはるん?」


 この日は春が洗濯物をほすのを、床几しょうぎ(スツール)に腰かけて、先生がながめていた。竜の頭が雁首がんくびになった、銀のきせるをくゆらせながら。


 春が問いかけると、吸い口から、くちびるを離し、イジワルな笑みを浮かべる。そんなことを聞いてもいいのか、と問うような目。


「あるじ夫婦は知っている。研究所で生まれたデザイナーズチャイルドだからな。ゲノム編集された優良遺伝子の持ちぬしだ」


 ニヤニヤ笑いながら、意味不明のことを口走る。

 春は口をとがらせた。


「センセ、うちのこと、バカにして」

「さあ、どうだかな」


 あんまり、おかしそうに笑うので、春はすねた。


「そんなん言うんやったら、うち、センセの羽衣見つけても、かくしてしまいますえ」

「羽衣?」

「天人は羽衣なくしたら、天に帰れまへんやろ? センセも羽衣なくしたんかなぁって。羽衣見つけたら、センセ、天に帰らはる?」


 先生は妙に納得した。


「羽衣か。まあ、そのようなものかもしれないな」


 春はあわてふためいた。

 やっぱり、聞いてはいけないことだったのだ。


「いやや。センセ。どこへも行かんといて。うち、もう聞けへんから!」


 必死にとりすがると笑う。

 先生は、つかみどころがない。


 こんなこともあった。

 ソウビの花が咲いたときだ。

 ソウビは、それはそれは豪華な花だった。八重咲きの大輪の花は牡丹のようなのに、香りまで、むせかえるように甘い。

 おかげで葉かげに大きなイモムシが、よくくっついていた。見つけるたびに、春はゾッとした。


「きゃあー! おったー! また、おった。センセ、とってえな。うち、さわれへん」


 いつもの能面のような顔で、先生はイモムシを手づかみする。


「とったぞ。これをどうするのだ?」「すててぇ。みぞに流して、すてておくれやす」

「そんなに、しがみついていいのか? 虫が目の前にいるぞ」

「いややぁ。センセのイケズぅ!」


 きゃあきゃあ、さわいでいるまでは、先生もご機嫌だった。だが、イモムシが水に流されて、ほっと春がひと息ついたときだ。


「ほんま、きれいな花には、ぎょうさん、虫々がつくんどすなぁ」


 春の言ったひとことが、なにやら気に食わなかったらしい。先生は急に口元をゆがめた。

 先生のそんな表情を、春は初めて見た。なにしろ、いつも、どんなときにも、かるく微笑するていどの先生だ。


「もうよい。どうせ、つくものなら、ほっとけばよかろう」

「そんなんしたら、すぐ虫に食われて、穴だらけになりますえ?」

「枯れるものなら枯らしてしまえばよい」


 先生が、なぜ、そんなことを言ったのか、後日わかった。あのとき、先生は妬いていたのだと。




 *


 それから、さらに数日がすぎた。

 その日、ひさしぶりに先生は朝から出かけていた。


 春が一人で庭の草むしりをしていると、長屋のほうの戸がひらいて、おずおずと少女の顔がのぞいた。仕立て屋をしている文さんの娘、あきだ。あきは木戸のすきまから片手をさしだしてきた。結び文をにぎっている。


「これ、うちに?」


 人見知りの少女は、蝶々まげの頭を、こっくりと一つ、たてにふる。


「あきちゃんから?」


 今度は、よこにふる。


「……お武家さまやった」


 お武家?

 春には手紙をよこしてくるお侍など、心あたりがないのだが……。


 ほんとに、そう?

 あの人なら、春が糸屋に居候していることを知っている。


「おつかい。おおきに。これ、食べよし。センセにもろたんよ」


 おだちんがわりに、昨日、先生にもらった飴玉をにぎらせると、あきは、すぐにいなくなった。


 一人になると、春は急いで結び文をひろげた。

 思ったとおりだ。

 文は、矢三郎からのものだ。

 あんなふうに半狂乱になっていた矢三郎だが、文をよこしてくるということは、正気に戻ったのだろうか?


 ともかくも、読んでみる。


 短い文章がしたためられていた。

 先日は話の途中で卒倒したらしく、ごめんそうろう。気づいたときには春がいなくなっていた。咲の一件で火急の話がある。西本願寺にて待つ。

 と言ったむねが書かれていた。


 春は几帳面な矢三郎の筆跡を見て、ほっとした。


 では、あのあと、矢三郎は正常に戻ったのだ。

 異常をきたしていたときの記憶がないから、気絶しているあいだに春が帰ってしまったと考えたのだろう。


 先生が刺されて死んでしまったことは、春にも説明しようがない。あんがい、あのあと、先生の死体は消えてしまったのかもしれない。

 それなら、矢三郎は自分がしたことに気づくはずもないのだ。


(西本願寺なら、歩いても行けるとこや)


 糸屋から二条城までの距離と比較すれば、三分の一ほどだ。女の足でも半刻もあれば行って帰れる。南蛮渡来の先生の時計で言えば、片道三十分である。


 迷ったけれど、春は行ってみることにした。正気の矢三郎なら怖いことは何もない。咲のことを調べてくれていたようだし、ぜひ会って話が聞きたい。


 そこで、春はもらった文の裏に、先生の机の上の羽ペンとインクで、行ってまいりますと置き手紙を書いた。

    

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る