二章 春の夜のゆめばかりなる手枕に 2—3
「いや、そなたは、まだ夢を見ている」
「これも、夢なん?」
「そうだ」
そこでいきなり、春は糸屋の裏座敷に移っていた。
寝床から半身を起こし、庭を見ていた。障子がひらき、雪のつもった庭が見える。
場所も季節もおかしいが、夢だから、ふつうなのだろう。
先生が寝棺のなかから起きあがり、土蔵を出てくる。糸屋とのさかいの木戸をぬけ、雪の上にサクサクと
「だから、言ったろう? 一人でムチャをするなと」
「……すんまへん」
「そなたに死なれては、私が困るのだ」
「なんでどす?」
「そなたは、キーだ」
「キー……?」
「大切なものという意味だ」
「うちのこと、大事なん?」
「うむ」
「うちのこと、好きやから?」
すると、先生は困惑した。
「ああ……つまり、そなたの言うのは、男女の情けのことであろうな?」
「あたりまえやおまへんか。うちのこと、どない思っとるん?」
夢のなかだから、春は大胆だ。
寝床をはいだして先生につめよった。
金緑に輝く恐ろしげな目をした先生のほうが、弱りはてている。
「そなたのことは好ましく思っている。そなたは一途で愛らしい。だが……」
先生が物思う目つきになったので、春はピンときた。
「センセ、恋しい人がいはるんえ?」
「…………」
先生は無言で雪の庭をながめる。
さみしげなよこ顔を、春は見つめた。
「片恋なんどすな?」
「…………」
先生ほどの人を思わない人も、この世にはいるのか。
春は物思いにふける先生の頭を両手で抱きしめた。自分の胸に押しつける。
先生のおもては、あいかわらず無表情だが、胸の内には大きな孤独をかかえているのだと、このとき感じた。
「センセ。かわいそう。泣いてもええんよ」
「私は泣くことはできぬ」
「男やから?」
「そうではない。私は涙を持たぬのだ。血を流すほど感情がたかぶったことは、まだない」
「血ィどすか? 涙があれへんから、血ィが出てくるん?」
「そうだ。我々はそういう種族なのだ。もっとも、一人だけ例外がいるがな。それを逆手にとって、美しい空涙をハラハラとこぼしてくれる」
「それがセンセの好きな人?」
ほのかな笑みを、先生は浮かべた。
「おかしなヤツだな。そなたは。私が恐ろしくはないのか?」
「それは恐ろしいおますえ」
「では、なぜ?」
「なぜ言われても、しかたあらへんわ。うち、先生に捕まってしもたんよ」
先生は春の手を優しくふりはずし、春のほおを両手で包みこんだ。
さらさらと音をたて、絹のような黒髪が、春の肩にこぼれおちてくる。先生の髪は梅の花の香りがする。高貴だが、どこか、さみしげ。
その香りに、うっとりしていると、先生のくちびるがおりてきた。
ほんのり、冷たい。
甘美なくちづけ。
「……約束をしたな。そなたはもう忘れてしまっただろうが」
先生の声が遠くなる。
目がさめると朝になっていた。
いつのまに眠っていたのだろうか?
春は糸屋の裏座敷で、ちゃんと寝床に入っていた。
夢のなかのあやふやな感触が、まだ、くちびるに残っているのに……。
春は急いで寝床をあげ、着物を着た。
裏庭を通って、先生の土蔵まで行ってみた。
戸前の錠はおりていなかった。
扉をあけると、たったいま起きてきたというようすで、二階から竜羽先生がおりてきた。涼しげなおもてに笑みさえ浮かべている。
「湯屋へ行くのだ。春、そなたもどうだ?」
ああ、やっぱり、そうなのだ。
この人は、人じゃない。
その正体がなんなのかは、わからないけれど。
「はい。つれてっとくれやす」
それでもいい。
先生についていこう。
そのとき、春は決心した。
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