二章 春の夜のゆめばかりなる手枕に 2—2
*
先生。お願い。先生。
帰ってきて。
うちのために死なんといて。
糸屋の裏の先生の土蔵。
春は祈るような気持ちで、先生の帰りを待った。
だが、あのとき、先生の胸を白刃がつらぬいていくのを、たしかに見た。刃のさきが血にぬれ、赤く染まっていた。
あんな深手を負わされて、ぶじに帰ってこられるはずがあるだろうか?
一刻、二刻。
日が暮れても、先生は戻らなかった。
西日が茜色に、たたみを照らし、窓の格子の形をその上に落とす。紅は、じょじょに淡く、闇に溶けていく。
先生は、もう戻ってはこないのだ。
いくら待ってもムダなのだ。
涙がせきを切って、こぼれおちた。
体じゅうのすべてが涙になって、しぼりだされていくようだ。
春が助かるかわりに先生が死んでしまうくらいなら、自分が殺されていればよかった。
先生がいなくなって、今、こんなにも身も世もなく悲しい。とても、あの人なしでは生きていけない。
いっそ、あのとき、先生といっしょに殺されていれば。そうしたら、暗い黄泉路を先生一人で逝かせることはなかったのに。
(それとも、うちなんかといっしょでは、先生のほうが迷惑やろか?)
泣きじゃくっていると、コトリと階下で音が聞こえた。
それは、ごくかすかな音だった。が、神経のたかぶった春の耳には、ハッキリと聞きとれた。
「センセ?」
先生が帰ってきたのかもしれない。
春は一瞬、喜んだ。
だが、階下におりていっても、土蔵の出入口は閉まったままだ。それに、あの音は、蔵のなかから聞こえてきたような気がした。
春は暗闇のなかで立ちつくした。
なんだか、いやなことを思いだしてしまう。以前、この蔵のなかで、あの音を聞いたこと。虫の羽音のような……。
思えば、あれが怪異の始まりだった。
あのときは先生が春をからかったのだと思ったが、ほんとに、そうだったのだろうか?
いつもなら、とっくに怖くなって逃げだしていた。でも、今は違う。先生を死なせてしまったという思いが、春を絶望的な気分にさせていた。もう何もかも、どうなってもいい。
春は手さぐりで蔵のなかを歩きまわった。音がしたと思ったあたりへ進んでいく。
途中、何かにぶつかった。
文机のようだ。
そろそろと手を伸ばし、春は文机の上の、びいどろのあんどんに灯を入れた。スイッチというものを押せばいいのだと、先生から教えられている。スイッチを押すと、金色の光が蔵のなかに満ちあふれた。まぶしさに目をとじる。
しばらくして目がなれてきた。
あらためて音のしたほうを見る。
そこには長持ちがあった。
階段の裏に置かれた、あの長持ちだ。
春は前々から思っていた。
この形、寝棺に似ているな——と。
春は長持ちを見つめた。
先生くらい背の高い人でも、余裕を持って、なかでよこになれる。
音は、たしかに、ここからした。
この長持ちのなかから……。
脳天のしびれるような感覚が、春をおそった。
言うに言われぬ感情のたかぶり。
春は吸いよせられるように、長持ちの前へ近づいた。
あけてはいけない。
きっと、見てはいけないものを見てしまう。
わかっているのに、自分の意思では、もうどうにもならない。何かにあやつられるように、春は長持ちのふたをあけていた。
ふたの片側が、ちょうつがいになっている。どっしりとした見ためだが、あんがい、楽にあけることができた。
七色に光る
そして、その上に——
ああ、やっぱりと、春は思った。
こんな気がしていた。
「センセ……」
長持ちの寝具の上に、先生がよこたわっている。
白いこめかみ。
とざされたまぶたは、まつげの影が電光のもとで、あざやかに濃い。
いつに変わらぬ、冷たくとりすました、美しいおもて。
(よかった。センセ。ほんまは死んでへんのやろ? センセがあっけのう死ぬわけあらしまへんもん。そやろ? センセ)
手を伸ばし、その人のほおにふれてみた。なめらかなほおは、かすかに指のしびれるような冷ややかさ。
「センセ。起きて。いつのまに帰ってきはったん? うちをおどろかそ思うて、かくれてはったん?」
ひどくバカげたことを言っているが、このとき、自分ではマジメだった。
見たところ、先生の胸には刺されたようなあともない。
昼間とは着ている着物も違っている。
では、やはり、昼間のあれは夢だったのだ。
夢にしても、ひどい。
先生が春をおいて逝ってしまうだなんて。
「センセ。起きてぇな。うち、怖い夢、見たんよ。ねえ、センセ」
ゆりおこしていると、ぱちりと先生の目があいた。
困ったような顔をしているが、その目は人間の目ではない。金緑に輝き、三日月の瞳孔の、蛇の目だ。
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