二章 春の夜のゆめばかりなる手枕に 2—1
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春はすくんだ。
こんなときに、あの怪異が起こるなんて、どうしたらいいんだろう?
おびえる春の肩を、矢三郎がガッチリとつかむ。
矢三郎は姫の身辺警護役だから……?
しかし、ようすがおかしい。
何がというわけではないが、春は違和感を感じた。
それはもう、春の知る矢三郎ではなくなっていた。きまじめで頑固で、自分の信念をまげられず、不器用にしか生きられない。そんな矢三郎ではない。
とつぜん、またたきをしているあいだに、形は同じだが、別人とすりかわっていたかのような……。
「川田……さま?」
泣きそうになりながら、たずねてみる。
矢三郎は無言で、じっと春を見つめていた。春の肩をつかむ手に、ますます力がこもってくる。尋常ではない力だ。
春は肩がくだけそうな気がした。
「離してください……誰か——誰か、来て!」
必死に叫ぶが、人払いしてあるせいか、誰もやってこない。
春は矢三郎の手で、かんたんに、たたみの上にころがされた。人間とは思えないような強い力で押さえられる。
矢三郎の顔には憑かれたような表情があった。正気とは思えない目つきだ。
「さほ……なぜ、心変わり……あれほど、誓いおうたに、誰を……思うた?」
わけのわからないことをつぶやきながら、矢三郎は、春の首に手をかけた。じわじわと、その指に力がこもってくる。
ああ、殺されるのだ——
すると、春の目の前に、とつじょ、桜吹雪の舞い散る光景がひろがった。
脳裏に浮かぶだけではない。
その景色が矢三郎の役宅の座敷のなかに、満ち潮のように押しよせ、目に見えるものをぬりかえていく。
桜吹雪のなかに、春はひきこまれた。
どこかの庭を歩いてある。
桜がとても美しい。
となりには矢三郎がいた。
四角四面の矢三郎しか知らない春には仰天ものの、甘ったるい笑みをうかべている。あたたかい愛情に満ちた目だ。
笑っている矢三郎を見ていると、心なしか春の胸もときめいてきた。
「矢三郎さま。わたしをつれて逃げてください」
「必ず——いつか、必ず」
「いつかだなんて、嫁いでからでは遅いのです」
「長らくはお待たせいたしませぬ」
「約束」
ごうかな振袖のたもとから、小指をさしだすと、その指に矢三郎の指がからまった。
かたい、かたい、指きり。
幼いしぐさに託した思いは命がけ。
くちづけ一つ、かわさない。
それがすべてで、精いっぱい。
あの日の約束をたがえたのは、わたしのほう?
わたしの心が別の人に移ってしまったから。
だから、わたしを殺すのね?
もうろうとしながら、春はかけよってくる足音を聞いた。
ガラリと、ふすまがひらく。
その音で、急に意識がハッキリもどった。
見ると……これも夢なのだろうか?
小面のような美しい無表情で、竜羽先生がそこに立っている。
そんなことがあるだろうか?
どうして、この場所がわかったのだろう?
春の身に危険がせまっていることが?
でも、夢ではない。
証拠に、先生は敷居をまたいで走りよってくると、いきなりゲンコツで矢三郎をなぐりたおした。
なげとばされた矢三郎は嫉妬に狂った目で、先生をにらんだ。
「きさまかァ……? さほをたぶらかしおったのは」
矢三郎の手が、そろそろと腰におりていく。刀のつかをにぎりしめた。
先生はせきこむ春の手をとり、さっき先生が入ってきたふすまのほうへ、かけだした。
小さな池のほとりに菖蒲の咲く庭が見えていた。日差しのなかで、やけに青々とまぶしい。
「センセ、どうして……」
「おまえと入れ違いで帰ってな。一人で出ていったと聞いて追ってきたのだ」
追うと言っても、どうして、春の行くさきがわかったのだろう?
「二条城の竜乃姫が行方知れずということは知っていた。思いつめた顔で出ていったと聞けば、城へ戻ったと考える。案の定、この男につれていかれるところを見かけてな——いいから、今は逃げるのがさきだ」
しかし、春は首をしめられて、まだ、ふらふらしている。じきに血走った目の矢三郎に追いつかれた。白刃をぬいて、せまってくる。
先生は春の背中を、どんと押した。
「逃げろ。右手へ行けば裏口がある」
「でも、センセ——」
呼びとめる春をその場に残して、先生は矢三郎のほうへと走っていく。
先生は素手。矢三郎は抜刀している。しかも、正気ではない。先生が無傷でいられるわけがない。
春は先生を見つめて動けなかった。
必死に矢三郎を説得する。
「川田さま。やめてくださいまし。いつものマジメな川田さまに戻ってくださいまし」
「ムダだ」と、先生は言いはなつ。
「この男は心を食われた。もとには戻らぬ」
それは、どういう意味だろうか?
だが、聞くひまもなく、先生は矢三郎と対峙する。
出会い頭にふりかざしてくる矢三郎の一刀をひらりとかわし、先生は刀をにぎる矢三郎の両手をつかんで押さえこむ。
先生は叫んだ。
「行けッ。早く!」
そういう先生のひたいには、早くも脂汗が浮かんでいる。矢三郎の手を押さえる腕が、ぶるぶる、ふるえている。
矢三郎のほうも、ひたいに青筋たてて、恐ろしい形相で歯をくいしばっている。
刀のつばが、カタカタと鳴る。
まるで静止しているかのように見えるが、押さえる力、押しのけようとする力、二人の力が拮抗しているからだ。じっさいには、ものすごい力の応酬がかわされている。
春はためらいがちに、縁側まで後退した。
そこで、もう一度、ふりかえる。
いけない。先生のほうが押されている。刀の切っ先が、じわじわと先生のほうへ向いている。
やはり、矢三郎がふつうの状態じゃないからだ。ふだんなら出せないような力を発揮しているのだろう。
「センセ……」
ためらっている春に先生が気づいた。
「何してるッ。行け!」
叫ぶぶんだけ力が弱くなった。
その瞬間、矢三郎の押しだした刀身が、するりと先生の胸に吸いこまれていく。先生の背中から、銀色の刃がツノのように生えてくる。
春は信じられない思いで、それを見た。
「センセ——!」
かけもどろうとする春を、先生がとどめる。
心臓をひとつき。
すぐに倒れてしまっても、おかしくないはずなのに。
先生は自分の体に刀身を入れたまま、矢三郎にしがみついた。まるで抱擁するように、矢三郎の背中を抱きしめる。
そうされると、矢三郎は身動きとれない。
先生は自分の体を盾にして、矢三郎をひきとめているのだ。
先生はかすれる声で告げた。
「行けえェッ!」
その気迫は、さからうことをゆるさないものだった。
春は庭へとびだした。
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