二章 春の夜のゆめばかりなる手枕に 1—3
春としても、矢三郎のことは信用していた。
矢三郎ほど頭のかたい朴念仁が、大切な役目を持つ姫を殺すなど、ありえないからだ。もし、矢三郎が咲を殺したのだとしたら、咲の正体に気づいたからだろう。
「じつは、あの夜、こんなことが……」
春はお咲が忍びこんできた夜のことから、これまでのことを、かいつまんで説明した。
「——という事情です。お咲さんが殺されたと聞いて、気になって来てみましたんどす。お咲さんを殺したんは、川田さまですか? お咲さんが曲者の一味だと知ったから?」
矢三郎は話を聞きながら、口をへの字にしている。
話すのに夢中で、春の口調が京言葉まじりになっていたからだろうと察した。
「いや、拙者ではござらん。あの夜、姫のご寝所の見張り番は、拙者と井沢でござった。しかし、姫に身代わりあったなどと、まったくもって寝耳に水でござる。姫のお姿が見えぬと腰元たちがさわぎましたよし、朝になりて、姫の
つまり、矢三郎は春が入れかわったことさえ知らない。単純に春が逃げたとしか思っていなかったのだ。
「ならば、何者のしわざでしょう?」
「それはわからぬ。わかりませぬが、よほどの手練れにございましょうな。なにしろ、その咲と申す娘の仲間が、咲の死体を見つけしのちに、姫を追ったは、姫が逃げだしてすぐとのことでしたな? その寸刻のあいだに、咲の仲間の男たちより早く寝所に忍びこみ、娘を殺めたのですからな」
「ほんとうに忍びこんできたのでしょうか? お城のなかの誰かということは?」
たとえば、腰元のなかの誰かなら、かんたんに咲を殺すことができたはずだ。矢三郎たち見張り番の目にも止まらないし、薬で眠らされていると思い、咲も油断していたはず。
矢三郎はうなった。
「万が一にも、そのような不届き者が城内にひそんでいるということなれば、これは一大事。姫のお命を狙ってのことだとすれば、なおさらに。
心得ました。姫の大事のお命にもかかわること。かような仕儀なれば、ここはご家老と相談せねばなりますまい。曲者の正体をつかむまでは、城に戻られるのは、かえって危険でござりましょうぞ」
思わず、春は小躍りしそうになった。
この感じは、もしかしたら、うまく言いくるめて、このまま逃げだせるかも?
だが、そうは問屋がおろさない。
「なれば、ただいま、どこにお住まいであらせられますか? 曲者を捕らえしだい迎えにあがりましょう。正直に仰せられませ」
「……えっ」
「もちろん、知人の家にでも身をよせておいででしょうな? 野宿ということは、よもやございますまい。その身なりも下々のものとは言え、そうそう貧しきものでもない。力になっておる者がおありなのは、ひとめでわかり申す。
正直に仰せでなくば、ここから帰しませぬぞ。本意ではござらんが、なわでしばって柱にくくりつけてでも、とめおきますゆえ。でなくば、志なかばで倒れられた、あのかたも、草葉の陰で泣かれましょうぞ」
目を見れば、矢三郎が本気だということはわかる。
うんと言わなければ、どうしても帰してもらえないようだ。
春は言い負かされて、糸屋の所在地を明かしてしまった。
「よろしい。糸屋ですな。くれぐれも逃げだそうなどとなさいませぬように。もしも、迎えに行ったとき、姫のお姿なきときは、糸屋の者たちがどうなるか、ようよう考えられますように」
春は矢三郎の役宅を出ることをゆるされた。
しかし、これは、かりそめの自由だ。糸屋の人たちを人質にとられて、そのさきの恒久の自由を失ったのだ。
春は気落ちしたが、ともかく、いったんは帰してもらえることになった。
咲の死の真相については、矢三郎が調べてくれることになった。まったく進歩がなかったわけではない。
「では、よろしゅう頼みます」
春が立ちあがろうとしたときだ。
あの音がした。
背中のぞわぞわするような気配。
虫の羽音のような、かすかな、あの音……。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます