二章 春の夜のゆめばかりなる手枕に 1—2
春は大きく、うなずいた。
ふってわいた幸運に心が浮き立った。
「嬉しい。うち、これで、ふつうの娘みたいに恋もできるんや」
春たちは急いで着物をとりかえた。
娘の忍び装束をまとうわけにいかなかったので、春は長じゅばん一枚になった。
そのあと、娘の手を借りて、春はお城をぬけだした。
石垣をなわばしごを使って乗りこえたり、見張りをやりすごして門をぬけだしたり、なかなかの離れわざの連続だった。一人では、とても不可能だったろう。
「さあ、お姫さま。あたしは、ここまでだ。ここからは一人で行くんだよ。言っとくけど、町娘として暮らすなんて、ラクじゃないからね。だからって帰ってくるんじゃないよ。そしたら次は、あんたを殺さなけりゃいけなくなる」
「大丈夫。うち、弱音なんて吐きません」
「そう? じゃあ、達者でね」
おたがいの前途に幸運を祈って別れた。
だが、そのすぐあとに、つけられていることに気づいた。つけてきたのは、たぶん、娘の——お咲の仲間だろう。
首尾を確認しにきて、“姫”が殺されているのを発見した。お咲が姫を殺し、怖くなって逃げたと考えたのだ。
だから、お咲を殺したのは、あの男たちではない。
(悪い人やなかったのに。お咲さん。うちのかわりに……)
なぜ、お咲は殺されたのか?
誰に?
ほっとくことはできない気がした。
でないと、春の身代わりになって死んだ咲が哀れすぎる。
それで、つい、二条城まで来てしまったのだけれど……。
お城の門には見張りがついている。見つからずに入りこむことはできない。この前の夜のような離れわざは、春一人では、とてもできない。
もちろん、竜乃が帰ってきましたと言えば、なかには入れるが、二度と外には出られないだろう。
よく考えたら、誰に聞いていいのかもわからないし、困りはてて、春は石垣を遠目にながめて、ウロウロしていた。
そのとき、とつぜん、春は腕をつかまれた。
また、咲の仲間か?
ハッとして見れば——
「探しましたぞ。姫。よくも世間知らずの御身が、今まで、ぶじに生きておられましたな」
見知った男が立っていた。
江戸小紋の紋付袴に二本差し。
さかやきのそりあとも青い。
どこから見ても、武士のいでたち。
眉の濃い、なかなかの男前ではあるが、竜羽先生の美貌になじんだあとでは、いささか劣って見えることは、いなめない。
川田矢三郎だ。竜乃の身辺警護のかしらであり、江戸城随一の武芸者としても知られている。
「川田さま。離してください」
春が言うと、矢三郎の口元に苦いものが刻まれた。要するに、口をへの字にした。矢三郎が春を見て、よくやる表情だ。心のなかで“へっ”と思ってるのに違いない。
春は以前、ひそかに矢三郎のことを男前だな、少しいいなと思ったこともあった。が、この表情だけは、どうしても好きになれなかった。バカにされていることが、ありありと伝わってくる。
しかし、矢三郎はそれを口に出しては言わない。
「何を言っておられますやら。ごぶじであるとわかったからには、すぐにも城にお戻りになられなければ。みな、案じておりますぞ」
矢三郎は剣の腕前だけでなく、石頭なことでも城下一として名をはせている。
なんとか、手をふりほどいて逃げだそうとするものの、きつくつかまれて、とても、ふりほどけそうにない。
「ささ、早く」
「いやです。うち、帰りまへん。帰れば、殺されますよって」
初めて、矢三郎のようすが変わる。
もともと、きまじめだが、さらに神妙な顔つきになった。
「なんと申されましたか? 姫が殺される? 二条のお城のなかででございますか?」
そのとき、通りを何人かの町人たちが歩いていった。
昼日中のこと、人通りがある。
矢三郎は人目を気にしたようだ。
「そういうことなれば、ひとまず、拙者の役宅へ参りましょうぞ。話を聞かせてはくださいませぬか」
役宅なら、まあ、なんとか逃げだせるかもしれない。
春は、しぶしぶ、矢三郎についていった。
矢三郎の役宅は二条城のまわりに幕府が所有する家屋敷の一つだった。
矢三郎は二千五百石の旗本の三男坊だ。本来なら城内の大部屋があてがわれるべきである。役宅をあたえられているのは、竜乃姫のおおぼえめでたいからだ。逢瀬ということにでもなれば、外のほうが都合がいい……そんな算段が、そのころ、竜乃の心のなかにあったのかもしれない。
おかげで人目をさけて話ができる。
春は初めて来たが、なかなか、りっぱなお屋敷だ。糸屋の敷地の倍はある。独り身の若い男の役宅には贅沢すぎる。
「お庭も、きれいですね」
「そんなことは、よろしい」
矢三郎は追いたてるように、春を奥座敷へつれていく。用人を遠ざけると、さっそく話を切りだした。
「姫。さきほどの件ですが、城内にてお命を狙われておいでですか? いつからのお話ですか?」
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