一章 めぐりあひて見しや それともわかぬまに 3—3

 *


 明日になったら糸屋を出よう——

 そんな決心も、そのあとに起きた怪異のためにグラついた。


 もし、また、あんなことがあったらと思うと、一人で立ち向かう勇気は出ない。それで、ずるずると糸屋に世話になる春であった。


 日々の暮らしは、おだやかだ。

 天気も上々。

 掃除の前に洗濯しておこうと、先生のよごれものをたらいに入れて、土蔵の外の黒板塀を出る。


 井戸端には顔なじみの女たちがいた。同じく洗濯に余念がない。


「おはようございます。みなさん、ご精が出ますなぁ」

「おはようさん。お春ちゃん。ええなぁ。センセの下帯なら、うちも洗いたいわぁ」

「いやや。からかわんといてぇ。お香さん」


 お香は、東屋紅香あずまやべにかという雅号で戯作を書いている。若いのか年配なのか、よくわからない。


 かたわらには、ふみ、あきの親子の姿もある。文さんは、つれあいに先立たれた後家の仕立て屋さん。娘のあきは、まだ十さい。人見知りの激しい子どもだ。


 春と同い年のおミツさんもいる。

 通りに面した一軒めの汁粉屋の娘だ。


 これらは糸屋が大家をする長屋の住人たちだ。同じ店子と言っても、先生の土蔵は敷地も広く造りもりっぱだが、長屋は、ごく庶民的だ。


「お春さん。ええとこ来たわ。油屋さんのこと聞いた?」


 春が井戸端にしゃがみこむと、おミツさんが神妙な顔をして口をひらいた。


「なんぞ、ありましたん?」

「まだ、知らんのん? じつはな。うちも、さっき聞いたんやけど」


 おミツさんは目を輝かせて話しだす。ウワサ話が大好きなのだ。


「高倉のところの油屋さん、知っとる」

「油屋は知れへんけど、高倉なら、わりに近いやない?」

「そうなんよ。歩いてでも行けるえ。じつは、その油屋さんには、年ごろのきれいな娘さんがおってな。さつきさん言うて。その娘が行方知れずなんやって!」


 おミツによると、こうだ。


 さつきさんは、お大名とも取引のある大店の油屋の娘。りっぱなおうちの厳重に戸締まりした部屋のなかから、ふっつりと姿を消してしまった。


 近ごろ流行りの神かくしだ。


 あの町で一人、この町で一人と、年ごろの娘が行方をくらます。


「さつきさん、おらんようなる前の日に、変なもん見た言うてたんやって。それはもう怖がって、一人では、よう寝らんて、お母はんの部屋で寝せてもろたんやって。そやのに、朝になって、お母はんが目ェさましたら、おれへんようんなってたって。家の戸締まりは夜のまんま。空気みたいに消えてしもたんやってぇ!」


 きゃあきゃあと、女たちは、おもしろ半分に怖がってみせる。おミツの口調に、さらに熱が入った。


「さつきさんの見たもんが、また無気味なんやて。夜中にな。窓の外、ぞろぞろ歩く足音がして、二階の自分の寝間の窓、あけたんやって。そしたら、人はおれへんで、ふわふわした白い人魂みたいなもんが、ぎょうさん飛んどったらしいえ。

 ほんで次の晩には行方知れずや。あない、ふるえあがっとったのに、自分から雲がくれするはずもなし。油屋さん夫婦は娘が取り殺されたんやないかって、泣いてはるらしいわ」


 ぼそりと、文さんがつぶやく。


「出門さまやろか?」


 違う。出門さまではない。

 さつきさんの見た人魂みたいな白いもの。それは、出門さまと言うより、春の見た、あの白いカビではないだろうか?


 お香さんも言った。


「年の瀬のころ、島原の太夫たゆうも消えたって言うえ。怖い、怖い。お春ちゃんも気ィつけや? べっぴんさんやさかいになぁ。神かくしにあうんは、評判の小町娘なんやって」


 たしかに、春は幼いころから器量がいいとは言われた。しかし、春はさみしげな自分の容貌が、あんまり好きではない。


 いや、そうではないのかもしれない。

 あのことのせいだ。

 鏡のなかに自分のおもてを見るとき、よみがえってしまう。

 あの忌まわしい思い出。



 ——そなた、いい気味じゃと思うておろう。ええ、憎や、悔しや。そなたなどに渡すものか。わらわのもの、すべて……。



 あの声を耳元で聞く気がして、春は両手で耳をふさいだ。


 お香さんが笑いだす。


「お春ちゃん。ほんま怖がりなんやねぇ。でも、こんなん、まだまだえ。じつはな、もっと仰天の話、知っとるねん」


 春はもう怪談は聞きたくなかった。

 しかし、おミツがワクワクして、さきをうながす。


「なんなん? その話、うち、聞きたい!」


 お香さんは、みんなに頭をよせるよう手招きする。


「昨日、版元から聞いたばっかりの話なんやけどな。じつは二条のお城の姫さまも、行方知れずらしいんよ」


 ドッキンと胸が大きく脈打つ。

 幸い、目新しいウワサに、みんな夢中で、誰も春のようすになど気づかない。


(……うちと入れかわった娘は、お咲さんやったっけ)


 追っ手の男たちが、そう呼んでいた。


 お咲は誰とも知れぬ相手に殺されたという。

 お咲の死は、春のせいではなかっただろうか?

 春の身代わりだったのでは……?


 そんな気がする。


 春はたらいをかかえ、立ちあがった。


「うち、出かけてきます」


 井戸端に女たちを残し、春は土蔵にかけもどった。


 どうしても行かなければ。

 もう一度、あの場所へ。

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