一章 めぐりあひて見しや それともわかぬまに 3—3
*
明日になったら糸屋を出よう——
そんな決心も、そのあとに起きた怪異のためにグラついた。
もし、また、あんなことがあったらと思うと、一人で立ち向かう勇気は出ない。それで、ずるずると糸屋に世話になる春であった。
日々の暮らしは、おだやかだ。
天気も上々。
掃除の前に洗濯しておこうと、先生のよごれものをたらいに入れて、土蔵の外の黒板塀を出る。
井戸端には顔なじみの女たちがいた。同じく洗濯に余念がない。
「おはようございます。みなさん、ご精が出ますなぁ」
「おはようさん。お春ちゃん。ええなぁ。センセの下帯なら、うちも洗いたいわぁ」
「いやや。からかわんといてぇ。お香さん」
お香は、
かたわらには、
春と同い年のおミツさんもいる。
通りに面した一軒めの汁粉屋の娘だ。
これらは糸屋が大家をする長屋の住人たちだ。同じ店子と言っても、先生の土蔵は敷地も広く造りもりっぱだが、長屋は、ごく庶民的だ。
「お春さん。ええとこ来たわ。油屋さんのこと聞いた?」
春が井戸端にしゃがみこむと、おミツさんが神妙な顔をして口をひらいた。
「なんぞ、ありましたん?」
「まだ、知らんのん? じつはな。うちも、さっき聞いたんやけど」
おミツさんは目を輝かせて話しだす。ウワサ話が大好きなのだ。
「高倉のところの油屋さん、知っとる」
「油屋は知れへんけど、高倉なら、わりに近いやない?」
「そうなんよ。歩いてでも行けるえ。じつは、その油屋さんには、年ごろのきれいな娘さんがおってな。さつきさん言うて。その娘が行方知れずなんやって!」
おミツによると、こうだ。
さつきさんは、お大名とも取引のある大店の油屋の娘。りっぱなおうちの厳重に戸締まりした部屋のなかから、ふっつりと姿を消してしまった。
近ごろ流行りの神かくしだ。
あの町で一人、この町で一人と、年ごろの娘が行方をくらます。
「さつきさん、おらんようなる前の日に、変なもん見た言うてたんやって。それはもう怖がって、一人では、よう寝らんて、お母はんの部屋で寝せてもろたんやって。そやのに、朝になって、お母はんが目ェさましたら、おれへんようんなってたって。家の戸締まりは夜のまんま。空気みたいに消えてしもたんやってぇ!」
きゃあきゃあと、女たちは、おもしろ半分に怖がってみせる。おミツの口調に、さらに熱が入った。
「さつきさんの見たもんが、また無気味なんやて。夜中にな。窓の外、ぞろぞろ歩く足音がして、二階の自分の寝間の窓、あけたんやって。そしたら、人はおれへんで、ふわふわした白い人魂みたいなもんが、ぎょうさん飛んどったらしいえ。
ほんで次の晩には行方知れずや。あない、ふるえあがっとったのに、自分から雲がくれするはずもなし。油屋さん夫婦は娘が取り殺されたんやないかって、泣いてはるらしいわ」
ぼそりと、文さんがつぶやく。
「出門さまやろか?」
違う。出門さまではない。
さつきさんの見た人魂みたいな白いもの。それは、出門さまと言うより、春の見た、あの白いカビではないだろうか?
お香さんも言った。
「年の瀬のころ、島原の
たしかに、春は幼いころから器量がいいとは言われた。しかし、春はさみしげな自分の容貌が、あんまり好きではない。
いや、そうではないのかもしれない。
あのことのせいだ。
鏡のなかに自分のおもてを見るとき、よみがえってしまう。
あの忌まわしい思い出。
——そなた、いい気味じゃと思うておろう。ええ、憎や、悔しや。そなたなどに渡すものか。わらわのもの、すべて……。
あの声を耳元で聞く気がして、春は両手で耳をふさいだ。
お香さんが笑いだす。
「お春ちゃん。ほんま怖がりなんやねぇ。でも、こんなん、まだまだえ。じつはな、もっと仰天の話、知っとるねん」
春はもう怪談は聞きたくなかった。
しかし、おミツがワクワクして、さきをうながす。
「なんなん? その話、うち、聞きたい!」
お香さんは、みんなに頭をよせるよう手招きする。
「昨日、版元から聞いたばっかりの話なんやけどな。じつは二条のお城の姫さまも、行方知れずらしいんよ」
ドッキンと胸が大きく脈打つ。
幸い、目新しいウワサに、みんな夢中で、誰も春のようすになど気づかない。
(……うちと入れかわった娘は、お咲さんやったっけ)
追っ手の男たちが、そう呼んでいた。
お咲は誰とも知れぬ相手に殺されたという。
お咲の死は、春のせいではなかっただろうか?
春の身代わりだったのでは……?
そんな気がする。
春はたらいをかかえ、立ちあがった。
「うち、出かけてきます」
井戸端に女たちを残し、春は土蔵にかけもどった。
どうしても行かなければ。
もう一度、あの場所へ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます