一章 めぐりあひて見しや それともわかぬまに 3—2
「私の話はタイクツだったか?」
「ううん。センセ、今日はおおきに。うちのために、忙しいセンセの大事な一日をつぶしてもろて」
「円山の大しだれを見逃した。
左阿弥は寺内にある座敷だ。
もちろん、タダではない。
この花見どきに、ご喜捨は安くはなかっただろう。
「うち、せっかくのセンセの好意をだいなしにしてしもたんや。ごめんやっしゃ」
「あやまる必要はない。そなたが楽しめたなら、それでよいのだ」
「けど、あの着物かて、高おましたやろ?」
「金の心配はいらん。命の値段は高いのだ。ことに権力者ほどな。私は腕のいい医者なのだ」
先生は喉声で笑った。
「また機会があれば、見に行こう」
「ええの?」
「今年はムリかもしれんがな」
「うち、来年でも再来年でも待ちます。天神さんの桜は、なんべんも見たんやけど」
先生は何かをなつかしむようなおもてをした。
「北野天満宮か。あそこは梅も美しいな」
「梅花祭り、センセも見に行かはったん?」
先生は答えず、微笑をふくんで春を見つめている。
春がとまどうほど、長いあいだ。
「センセ?」
「暗くなってきた。お絹が案じていよう。明るいうちに帰すと言いおいていたからな。起きあがれるか?」
「はい。もう平気」
「灯を入れる。そなたは身づくろいするといい」
先生は下着姿の春に気をつかったのか、二階のあんどんには手をつけず、階下へおりていった。
薄暗いなかに一人で残されて、心細い。
急いで身づくろいしていると、パッと明るくなった。階下からだが、あまりにも、まぶしい光がさしてきたので、春は仰天した。帯もむすびかけのまま、階段をおりる。
「センセ? これ、なんやのん?」
言いながら階段の途中までおりて、春は息をのんだ。
まぶしい光が、話に聞くエレキテルというものだということは、すぐにわかった。西洋のあんどんだと先生の話していた花の木が、ピカピカ光っていたからだ。
おどろいたのは、そのことではない。
西洋あんどんの前に立つ先生のようすが、何やら、おかしい。ビードロのかさに、おおいかぶさるようにして両手でかかえ、その光に美しいおもてをよせていた。
なんとなく、恍惚としたような表情。くちびるをよせ、まるでエレキテルの光を吸いこんでいるように見える。影が大きく壁に映り、妙な形にねじれて見えた。
あんどんの油をなめる妖怪を思い浮かべて、春はすくんだ。
気配を察したのだろう。
ハッと顔をあげ、先生は春を見る。
エレキテルの光に妖しくすける緑色の瞳が、春をとらえる。緑というより、光のかげんか、金色をおびてさえいる。
蛇ににらまれたカエルのように、春は動けなかった。
だが、次の瞬間には、先生はいつもの先生に戻っていた。
キラキラとぬれているような黒い瞳。
冷たく見えるほど端正なおもざし。
口元に、ほのかにきざまれた笑み。
「……どうした? そんなに電光がめずらしいか?」
「え? へえ……今……」
センセが別のもんに見えたさかい——とは言えず、春はおしだまった。
「自家発電機をそなえていてな。蘭学には電気はかかせぬ。ときに、春。帯はむすんで帰らねば、あらぬ誤解を受けるぞ」
「ややわ、センセ! うち……そないな女とちゃいます!」
「だから言っているのではないか」
何度もまたたきして見るけれど、やっぱり、いつもの優しく物静かな先生だ。
春は昼間から怖い思いをしたので、見まちがえたのだと思った。
こともあろうに、大好きな先生を妖怪のように思ってしまうなんて、とんでもない勘違いだ。
とりいそぎ帯をむすび、春は蔵の外へ出た。
空には、もう星が輝いていた。
「糸屋の表まで送ろう」
「あれ、ほんの目と鼻のさきやのに」
「そなたは目を離すと、ろくなめにあわぬ」
そう言われると反論できない。
我ながら多難な人生を送ってきた。
それは生まれたときからの運命で、しかたないのだと、あきらめてきた。
あの雪のそぼふる如月の夜までは。
「春」
「はい」
先生は春を送りだしながら、糸屋と土蔵をしきる木戸を示した。
「これからは、ここのかんぬきをはずしておく。もし困ったことが起きたら、真夜中でもいい。たずねてきなさい。そなたの寝間からなら、ここを使ったほうが近い」
一瞬、先生の真意をはかりかねた。
これは色っぽい誘いなのか?
いや、違う。能面のような、いつもの無表情を見れば、違うことはわかる。
やはり、先生は昼間、春の身に起きたことを知っているのではないだろうか。
そんな気持ちが、春を悩ませた。
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