一章 めぐりあひて見しや それともわかぬまに 3—1
3
目がさめると、春は見おぼえのある室内に寝かされていた。竜羽先生の二階座敷だ。
よろい戸をあけた窓から入る日差しは、かなり、かげっている。
枕元に、きっちり正座した先生がいた。
「センセ……」
「出先で倒れたと言えば、お絹らがさわごう。人目につかぬよう、こちらにつれ帰った。寝かせるために帯はといたが、不埒なふるまいには及んでおらぬ。安心するがよい」
言われて春は、先生の寝具の上に、じゅばん姿でよこたわっていることに気づいた。
買ってもらったばかりの桜の小袖が、壁ぎわの
先生の手で運ばれ、先生の手で着物をぬがされたのだと思うと、それだけで恥ずかしさに頰がほてる。
「センセ。うち……」
「起きあがれぬなら、ムリはするな。ケガもない。病でもない。恐ろしい思いをしたのだな?」
そのことも言われたとたん思いだした。
おぞましい情景が脳裏によみがえる。ゾッとして、布団のなかで肩を抱いた。
先生は子どもをあやすような声で言った。
「糸屋より、しょうが湯をもらってこよう」
立ちあがろうとするので、とっさに春は、先生の着物のすそをつかんだ。
「一人にせんといて」
先生はだまってすわりなおす。
春は先生の着物をにぎりしめたまま泣いた。
先生は春の気がすむまで泣かせてくれた。
ようやく涙がやんだころ、先生は静かな声で言う。
「そなたから目を離した私が悪かった。すまない」
「センセのせいや、おまへんえ」
「私は蘭学者ゆえ、名が知られていてな。昼の男も、どこかで私の風貌を聞いていたらしい」
なんだか弁解めいていたが、話がそれて、春は安心した。もし先生に何があったのだと聞かれたら、とても困っていた。
春をつれ去ろうとした男たちのことも説明できないが、その後の怪異にいたっては正気を疑われかねない。
あんなことが、まさか、自分のまわりで起こるなんて……。
「ねえ、センセ。人間が昼日中、消えてしまうなんてこと、ありますやろか? 学者のセンセなら知ってはりますやろ?」
自分では、それとなく聞いてみたつもりで、たずねた。
先生は口の端で笑みをきざむ。
「和風に言えば、神かくしだな。洋風なら超常現象。タイムスリップだとか、テレポーテーションだとか。あるいは魔法。西洋でも、いまだ解明されない分野だ。
だがな、春。神かくしの大半は、人さらいにさらわれるか、野生動物におそわれるかだ。または崖から落ちるなど、単純な事故。まれに頭を強打すると、神経回路に異常をきたし、記憶を失ってしまうことがある。ふらりと放浪してしまうので、周囲には神かくしに思えるのだ」
先生の話は蘭学にうとい春には、わかりにくい。
だが、今日のアレは、そんなことが原因ではないということだけは断言できた。
なにしろ、春の見ている前で、カビか寒天みたいなものに食われて、溶けてしまったのだから。
「そんなんやのうて……」
つぶやくと、まるで先生は何もかもわかっているというように、くすりと笑い声をもらした。
「なかには説明のつかないケースもある。しかしな、春。学者のあいだでは、超常現象を語る者は、つまはじきにされる。今のところ科学で説明できる目処が立たないからだ。だから、利口な学者は手堅い分野にしか手を出さない。たとえ、カビの生えたような古い
先生の口から“カビ”と聞いて、春はドッキリした。
先生はときどき、おどろくほど勘がいい。
それとも、ただのぐうぜんだろうか?
まさか、昼間のあれを、かげにかくれて、ずっと見ていたわけではあるまい。見ていたのなら、もっと早くに助けにきてくれたはず。
先生も腰をぬかしていたのなら、話は別だが。
(腰をぬかしとるセンセなんて、想像でけへん)
先生なら腰をぬかしても、やっぱり、いつもの能面のような顔をしているのだろうかと考えて、春は笑った。
まじめな講釈をたれているさなかに笑いだす春を、先生は怒りもせずに微笑でながめている。
春は先生の、そんなところが好きだ。
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