一章 めぐりあひて見しや それともわかぬまに 2—1

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 弥生に入ると、季節はいっきに春。


 この年は甲辰。

 西暦では、二千八十五年。

 来年がうるう年なので、季節の来るのが暦より半月も遅い。


 それでも、弥生のなかばになれば、太陽暦で言う四月だ。花見月、桜月というにふさわしくなってくる。

 春も近所の桜の木を見ては、花の数を数えて、満開になるのを心待ちにしていた。

 すると、今朝になってとつぜん、先生が花見に行こうと言いだした。


「安養寺の大しだれが見ごろだそうだ」


 いつものように、ホウキとハタキを持参した春を、先生は一階の洋間で待ちかまえていた。春の手をとって、強引に外へつれだそうとする。


「でも、センセ。うち、着物もこないやし……」


 着の身着のままでひろわれた春だ。着替えなど、むろんない。お絹の善意でもらったお古が数枚あるだけだ。

 そのなかでも作業着と決めた、地味な井桁いげたがすりに、たすきがけ、てぬぐいをかぶった姿は、好きな男と花見へ行こうという女の装いではない。


 男前の先生は、しぶい紫根色のあわせに、一本どっこの博多帯。白地に萌黄もえぎ色と藤色で、竹に藤のよろけじま紋様もんようをおりだした羽織はおり


 いやでも男ぶりのまさる、いでたちだ。名うての二枚め役者でも、そうは似合わぬような華やかな衣服を、さらりと着こなしている。


「先生。せめて、たすきとほっかむり、とらせておくれやす。うち、あんまり、女の立つ瀬ないわ」

「身づくろいは中途でととのえればよい。カゴを待たせているのだ」

「センセ、強引やわぁ」


 なさけないやら、嬉しいやら、乙女心は複雑にゆれる。


 表に待っていたカゴに乗せられ、ついたのは四条通りの呉服屋かいわいだ。昔は薩摩さつま屋敷などのあったところだが、今では、すっかり趣きを変えている。

 問屋だけの糸屋とは異なり、どの店も表に大振袖や金らんの帯などディスプレイして、目にもあやだ。


 春は自分の買い物のために店に入るのは、初めてだ。

 以前は母がぬってくれた。

 この数年は、だまっていても着替えがさしだされた。


 先生につれられて入った小袖屋の華やかさに、まごついていると、先生が手際よく決めてくれた。


「じゅばんをぬぐのは恥ずかしかろう。着せたまま半襟はんえりをかけてやってくれ」


 ぽんと大枚を出す客に、店のおかみさんも愛想がいい。


「へえ。手代が紅白粉べにおしろいも買うてきますよって」


 下駄屋や小間物屋も近所からやってきて、品物をひろげる。店さきでワイワイやってるうちに、春は上から下まで一式、ドレスアップしていた。


 雪輪ゆきわに桜文様の古風な柄の小袖は、女らしい春の容貌には、とてもよく映る。明るい朱色の琥珀織こはくおりの小袖だ。


 あわいタンポポ色の羽織はおりは、散らした花びらのぬいもよう(ししゅう)。白紗綾しろさや(絹地)の帯には、千鳥が飛んでいた。


 半襟は帯締めと同色の濃い緑でひきしめ、七宝しっぽうのもようが入っていた。


 黒いうるし塗りの下駄の鼻緒はなおは赤く、まっしろな足袋も真新しい。


 蒔絵まきえのくし。銀細工に珊瑚さんごの玉をあしらった根付。錦ぎれの巾着きんちゃく


 装いのととのった春の髪に、先生は銀の花かんざしを、すっとさした。


「よく似合う」


 そのとき、春は思った。

 この人は、女のあつかいになれている——


 それは当然かもしれない。

 これほどの美男を、女がほっとくわけがない。どこかに、いい人の一人や二人はいるのかもしれない。

 そう思うと、ズキンと胸が痛む。


(……うち、ほんまに好きなんや。センセのこと。でも、うちとおると、センセに迷惑かけてしまう。うちはセンセのそばに、いいひんほうがええんや)


 けれど、手をにぎられてつれていかれると、やはり心がはずむ。


 今日だけは思い出。

 明日になったら忘れよう。

 明日になったら糸屋を出よう。

 京を出て、どこか遠くの町へ行こう。


 そんな決心を知ってか知らずか、先生は待たせていたカゴに、ふたたび春を押しこんだ。

 安養寺なら直進のほうが近いのに、二度まがった。

 おろされたのは、三条大橋。鴨川のほとりだ。


「少し、歩こう」


 川端通りの桜並木は満開だ。

 うららかな日差しのなかで、かすみがかかったようだ。

 ごうかけんらんに散りゆく花びらが、春の肩にもこぼれた。


 その肩を先生の手が、さりげなく抱きよせる。並木道は花見客で、そうとう、にぎわっている。うかうかしていると、はぐれてしまうほどの人ごみだ。だからだろう。


 でも、そのおかげで、先生とよりそいあっていられる。

 春には、それだけで嬉しい。


 人々がそぞろ歩く波に乗って、舞い散る花の雨のなかを歩いていった。

 先生は春の歩調にあわせて、ゆっくりと歩いてくれた。


 先生は気づいていただろうか?

 桜を見るふりをしながら、春が見ていたのは、先生のよこ顔だということに。


(あれ、先生の目ぇ、黒いはずやのに、光にすけると、なんや緑に見えてくるわぁ)


 はらはらと惜しみなく花はふりしきる。

 魂を吸いこまれたように、春は先生の瞳を見つめる。

 ふっと、その妖しい翡翠ひすい色にすける瞳が、春を見おろす。


「めずらしいか?」

「え?」

「私の目だ」


 ドキンとする春の前で、先生は片手を自分の片目の上にかざした。すると、その手の作る影のなかで、すっと瞳の色が暗くなった。


 影のなかの片方は黒。光にすける片方は緑。あきらかに色が違う。

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