一章 めぐりあひて見しや それともわかぬまに 1—3


 男の足元が見える。

 ふりあおぐと、先生が立っていた。

 なんとなく、いつもより、いっそう顔色が白い。青白いくらいに。


 春が横着して、窓のよろい戸をあけなかったからだろうか?


 二階は夜のように暗い。


「おどかさんといてください。センセ、いつのまに帰らはったん?」

「たったいまだ。どうした? 幽霊にでも出会ったような顔だな」


 先生の口元が皮肉にほころんでいるのを見て、春はからかわれたのだと思った。先生が現れてから、あの音もやんでいる。


「センセ、ひどいわ。うちのこと、からかわはったん?」

「からかう? 私が?」と言いながら、先生の顔には、おもしろがっているふうがある。


 春は死ぬほど怖がったあとなので、ついつい先生の胸をにぎりこぶしで叩いた。涙があふれてくる。


「もう、センセのイケズ! うち、心の臓、止まるかと思うたんよ?」


 先生はいつもの何を考えているのかわからない無表情に戻っていた。でも、怒っているようすではなかった。春が涙を流すのを、物思うような目で見つめている。

 それに気づいて、春のほうが恥ずかしくなった。


「いやや。うち、恩人のセンセを叩いてしもて。かんにんしとくれやす」

「かまわん。人間は見ていて飽かぬ」

「また、そんなん言わはって。センセが人やないみたいえ」


 先生は、ちょっと肩をすくめた。

 それは日本的なしぐさではなかったので、春には意図がくみとれなかった。


「……うち、お布団ほしてきます」

「手伝おうか?」

「家のなかのことは女の仕事。男はんが手出ししはる必要はありまへん」


 とは言え、春にとっては、なれない力仕事だ。よろよろしながら、重い冬布団をかかえて、急な階段をおりていく。

 くすくすと背後から笑い声がふってくる。


「手伝おうか?」

「だいじょう……ぶ、どすえ」

「意外にいじっぱりだな。佐保姫(春の女神)のような優しげな顔をして」


 春は階段の途中から、まじまじと先生を見あげた。先生の表情には、他意があるようには見られない。もっとも、いつも本音の見えない人ではあるが。


「危ないから前を見ておけ。足をふみはずすぞ」


 平気ですと言おうとしたやさき、春は足をすべらせた。ばさばさと布団が階下へ落ちていく。春の体は、あやういところで先生に抱きしめられていた。


「だから言ったろう? 気をつけろ」


 先生のおもてから、からかう調子が消えている。


 春は、また涙ぐんだ。

 怖かったせいもある。が、意地をはって、けっきょく先生に迷惑をかけてしまう自分がなさけなかったのだ。


(うちは、ほんま、何やっても、ぶきっちょ。こんなんやから、できそこないやて言われるんや)


 くすんくすんと鼻をならしていると、先生が嘆息した。


「残りは私が運ぶ。春、そなたは落としたぶんを運んでおけ」


 先生の手が離れていった。

 先生は優しいんだか、冷たいんだか、わからない。

 もうちょっと、あのままでいてほしかったのに……。


「センセ、今日はもう、どっこも行かはらへんのん?」

「…………」


 なぜか、先生は長いこと考えた。


「そなたが望むなら、そうしよう」

「うち、ひきとめとるんと、ちゃいますえ」

「かまわん。私は二階で仕事をしている」

「二階? ほなら、さきに二階、ちゃちゃっと掃除してしまいます。窓もあけまひょか?」

「いや、いい。掃除もいい。話があるときは来るといい」


 いい、いい、いいと三連発で、なんだか先生、困っているようだ。


「たまにはセンセ、ひなたぼっこしはったら、どないです? そんなんやから、センセ、そない色白なんでっしゃろ?」

「…………」


 ついに先生は返事に窮した。

 だまりこんだあと、ふいに、くすくす笑いだす。


「そなたは、どうしても私を殺したいらしい。よかろう。今日はならぬが、今度、ともに花見でも行かぬか?」


 こっ、これは、ひょっとしなくてもデートのお誘いだ。


「行きます!」


 春は夢見心地で階下へおりた。

 布団をひろおうとして、ふと階段裏の長持ちに目が止まった。ふたが少しあいている。先生が動かしたのかもしれない。


 春は怪しみもせず、長持ちのふたをしめた。

    

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