34 “もしもこの世に神がいて、この願いが届くなら III”
・・・僕は、暗い場所に立っていた。
「ユリちゃん」
手に感触がある。隣を見ると、僕に近い背丈の・・・十歳前後の姿の、翠緑色の髪の子が、僕の手を握っていた。
「ハナっ!今起きたらまずい!治療が終わっ・・・」
「ちりょう?」
慌てて口を噤む。・・・ああ、僕はまた彼女の意識に同化してしまっていたのか?いや、ミオとしてじゃない。僕は僕としてここにいる。境界と意志を少し強めた効果は出ているのか。
ハナは僕をじっと見つめる。僕の知っているハナとは少し違うその顔を見て、僕は先に見た記憶の、横たわるミオの“お姉ちゃん”を思い出した。その姿は幼いものの、彼女と同じだ。ハナは、やはりミオが自分のお姉ちゃんとして生み出した人格だったのか。この姿は、彼女がそうと自覚している、自分の姿なのだろう。
魔素に自他の境界があるかどうかで、こうも見え方に違いがあるとは。おおまかに全容を理解した僕は、少しだけ
・・・“心的外傷の外科的治療”ね。僕は先程“宝玉と針”を見たときのように、精密な魔素誘導による、無機質な治療になることを想像していたんだけど。他人の脳の魔素流動・・・つまり“こころ”に自らの魔素を以って干渉し、直接語りかける、か。ある意味これも精密な魔素誘導による治療といえるのかな。
「ユリちゃん。ぼくはあの子をね、たすけてあげたいの」
僕の腕を引き、心配そうな顔を見せるハナ。彼女の視線の先、僕たちの前には、しゃがんで泣きじゃくるもっと小さなミオの姿が。人種が違うはずなのに、まるで僕にそっくりで・・・その腕には、包丁の刺さった、ぼろぼろの人形を抱えている。
ミオは奴隷商に強要され、姉の首に包丁を突き立てた自分を許すことが出来なかった。殻に閉じこもって、ひとりで自分を責め、泣き続けていたのか。そうか、これは・・・これは、僕だ。殻に閉じこもり、自分の不幸と、それを醸成した世を怨みながら生きてきた僕と同じだ。
僕はハナの手を引き、ミオの前に立つ。彼女は人形を庇うよう僕らから遠ざけ、そのまま後ろへ転ぶように後ずさる。
「来ないでッ!ぼくは、ぼくはお父さんとお母さんを見殺しにした!お姉ちゃんを殺した!」
彼女は血まみれの手を地面に打ち付ける。その目に狂気が宿る。
「ぼくは!何もできない役立たずのぼくだけが!なんで!」
・・・“なんで、自分だけがのうのうと生き延びているんだ”。僕にはこの子の心境が痛いほど、狂おしいほどに理解できる。
ハナがミオに手を伸ばすが、届かない。ミオからは、ハナが認識できていないのか。
「ぼくは!そうだ!あ、あいつらっ、あいつらを、みんな、殺して!ぼくも!」
冷たい目をした黒毛の異人。大きな赤毛の異人。剣を佩く三人の王国人。・・・武装奴隷商。
なんて、ひどいことを。この子には、何らの咎も、罪も、責も、ありはしないのに。・・・おそらく、僕は、僕を諭したときの教授と同じ目をしていることだろう。
「やく、役立たずの、ぼくも、殺されなきゃいけないんだッ!!」
僕はハナの手を離し、ミオに抱きつく。
「やめて!ぼくには、やらなきゃいけないことが!」
「もういいんだ!ミオ!お姉ちゃんも、そんなことは望んでいない!」
僕が強めに言うと、ミオは泣きながら僕を引き剥がそうとする。ハナが優しく手を添えると、ミオの動きが止まった。彼女は静かに泣き続ける。
「ああ、ぼくは、ぼくは・・・」
ミオが大事そうに持つ、包丁の刺さった人形。これが恐らく、僕が見た“針”。記憶の象徴なのだろう。魔素操作でこれを隔離すれば解決するのだろうか。・・・いや、忘れさせるだけではダメだ。
僕はミオの頭を撫で、恐る恐る人形に手をのばす。記憶の追体験は、発生しないようだ。
「僕は、きみと同じだ」
ミオは涙に濡れる顔を上げて、僕を見る。
「きみのお姉ちゃんは、ハナはね。こんなどうしようもない僕でも救ってくれた。赦してくれたんだ」
ミオはお姉ちゃんを呼び、再び泣き始める。
「時には死ぬより、生き続けるほうが辛いことだって確かにある。でも、きみがやるべきことは、自分を責め、復讐を遂げ、首をくくることじゃない」
ハナが僕らふたりを抱き寄せる。
「ミオちゃん、わらって。ほら、花火、きれいだよ」
これは、ハナの記憶か。見開かれたミオの目に、百年祭のときの花火が映っている。
・・・このハナは、ミオが自分を追い込んだ結果生まれてしまった、そうあって欲しいという願望──偽物のお姉ちゃんかもしれない。でも、どういう由来かなんてことはどうだっていい。彼女は迷うこと無く僕らを赦し、救おうとする。その想いは間違いなく本物だ。僕も、この子に救われたんだ。
「行こう、ミオ。今はまだ、自分を許せなくてもいい。それでも、僕らは、前に進まなきゃいけないんだ」
ミオは涙を拭き、頷く。そしてよろよろとしながらも、立ち上がってくれる。僕たちは手を取り合い、歩き出した。少しすると、ハナがついてこないことに気付く。
「・・・ハナ」
やっぱりか。仕方がないんだ。この子が前に進むために、ハナがいてはいけないんだ。わかっていたのに、僕は今更、ハナにもう会えなくなることを理解し、涙が溢れてくる。
「ユリちゃん、また泣いてる」
いい歳して、僕は泣いてばかりだ。でも、そういうハナも微笑みながらその目に涙を浮かべている。
「お姉ちゃんだって」
そう言うと、ハナは少しだけ驚いた顔をした。
「やっと、おねえちゃんって呼んでくれたね」
ミオは僕のことを不思議そうな貌で見ている。やはり、彼女にハナは認識できないのか。
「最後にもう一度会えてよかった。またね、お姉ちゃん」
「またね、ユリちゃんに、ミオちゃん。ぼくの、かわいい、妹たち」
ミオも、僕が手を振った方を見て、僕の言葉を繰り返す。彼女は抱えていた人形を落とし、手を振った。
「・・・またね、お姉ちゃん」
手を取り合い、静かに歩き出す僕らの背に、ハナは小さく声をかけた。
「ふーちゃんと、べーやんにも、よろしくね。みんな、大好きだよ」
──────────
──一月十五日、朝。西方辺境、グシュタール教授の研究所。
──・・・。
・・・ただ目を開けるよう、すっと起きる。昨日の夜のことを思い出そうとするけれど・・・どうにも、ミオの“治療”を行ってからの記憶がはっきりしない。疲れ切ってその場でそのまま寝てしまったのだろうか。横にはもう一つベッドが並び、ほとんど寝息もたてずにベルタが休んでいる。本当に不用心だな。でもこれは、ベルタが僕を空いている客間まで運んでくれたってことだろう。
起き抜けだというに、頭はこれ以上ないほど覚醒している。すぐにでも、ミオの様子を見に行かねば。
・・・やはり、着替えさせられているな。僕は急いで寝間着から着替える。その物音に目を覚まし、ベルタが起き上がる。
「悪い、起こしたか」
「いや、構わない。それよりきみは大丈夫なのか?治療中に、いきなり意識を喪ったようだけれど・・・」
「やっぱり、そのまま寝てしまったのか。僕は大丈夫だ。治療の方は・・・そうだな。僕が最善と思うことをした。うまくいったはずだ」
「ハナ・・・いや、ミオとフウも隣の部屋だ。様子を見に行くか」
すぐに隣の客間へ向かい、静かにノックして、ドアを小さく空ける。
まだ寝ているかも知れない。隙間から覗き込み、そのまま静かに部屋へ入る。中にはベッドがふたつ並ぶ。上半身を起こし、窓からまだ少し薄暗い外を眺めるミオと、そのベッドの横で座ったまま寝ているフウ。・・・一晩中様子を見ようとして、途中で力尽きたってところか。その肩には毛布がかけられている。
ミオは物音に気付くとこちらを向き、不思議そうな視線を投げかける。
「きみたちは?」
・・・僕は思わず目を逸らし、眉間に皺が寄ってしまう。ダメだ。やっと起きてくれたミオに、こんな悲しい顔を見せてはいけない。
「ここはどこ?どうしてふーちゃんが隣で寝ているの?」
自分の名に反応したのか、フウががばっと毛布を跳ね上げて起きる。
「ミオ!?」
「ふーちゃん。ここどこなの?あの子たちは?」
「ミオ!良かった!本当に!」
不思議な貌のままのミオの手を握り、すぐに涙目で抱きつくフウ。これで良かったんだ。僕は正しいことをした。そう確信させてくれる。可能な限りの、でも少し寂しげな笑顔をミオに向け、僕は説明を行う。
「きみの名前はミオ。ファミリーネームはコトトイで間違いないね」
「・・・うん」
「きみは三ヶ月前、武装奴隷商の馬車から救い出された。そのときから意識が戻らなかったんだ」
「おい、ユリエル・・・!」
「ちょっと、ユリエル、あなたいきなり・・・!」
焦った顔で僕に走り寄り、胸ぐらを掴むフウ。忙しいやつだな。
「奴隷商・・・っ!」
「ミオっ!」
そして僕の言葉を繰り返し、息を呑むミオ。駆け寄るフウ。僕は最終的に、ミオの記憶を消していない。ハナと一緒に、彼女が立ち上がる手助けをしただけだ。僕は視線を逸らさず、反応を確かめる。彼女は、最後に“人形”を自ら手放した。僕の考えが正しければ・・・
「・・・大丈夫、ふーちゃん。ちょっと息が苦しくなっただけ・・・」
よし。
「発作が、起こらない」
そう呟き、ベルタの顔が明るくなっていく。フウは椅子に腰掛け、額に腕を当て盛大に溜息をついた。
「はあーっ・・・この童貞が。ホント無神経なんだから・・・」
「ふっふーちゃん!その言葉を言っちゃいけないんだよ!取り憑かれちゃうんだよ!」
・・・はっ?
「・・・ミオ。あなたどこでそんなことを聞いたの?」
「えーと・・・お部屋で・・・あれ、どこのお部屋?ぼくんちじゃなかったと思うんだけど、ぼくんちのような」
記憶が混濁しているのか?これはこれでまずい状況のような気がしてきた。
「ミオ。税金、ってなんだかわかるか?」
ベルタが妙な質問をミオに投げる。・・・いや、違うな、この質問は。
「橋を作るときとか、となりの国に羊を盗まれないよう、兵隊さんを雇うために、みんなからお金を集めたりするやつだよね。なんでそんなことをきくの?」
この例えは・・・やっぱりそうか。ミオには、ハナだったの時の記憶がうっすらとだが、あるようだ。僕もひとつ、質問を行う。
「・・・僕の、名前は?」
「さっきから何言ってるのユリちゃん。ぼくはまだきみたちの名前を聞いてないのに・・・え?」
僕の目から大粒の涙が溢れ出す。ああ。良かった。本当に、良かった。僕らの旅に、無駄なことなんてなかった。窓の外、カルデラの縁から少し遅い朝日が“春の森”を照らし出し、差し込んでくる。僕は涙と洟でぐしゃぐしゃの顔で、出来る限りの笑顔を作った。
「おかえり、
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