33 “もしもこの世に神がいて、この願いが届くなら II”
・・・誰も、口を開かない。
研究所の居間で向き合って座る、僕にベルタ、教授・・・何故かバヤルもソファにもたれかかって居眠りをしている。正直こいつはいないほうが都合がいいから、先に客間へ行って休んでいてもいいと言っておいたんだけれど。
大きな振り子時計の発するかすかな音と、少しだけ耳障りなバヤルのいびきだけが、僕らの周りの空気を揺らしていた。
「お風呂上がっ・・・えっ、なにこの空気」
フウとハナが風呂から戻ってくるやいなや、居間の異様な雰囲気に一歩後ずさる。
僕は無言で立ち上がり、ハナの前へ行く。彼女はすっと僕の高さに目線を合わせ、微笑みながら少し首を傾げる。その眼を見つめると、僕はどうしようもなく心が苦しくなる。
一呼吸置いて、僕はハナを抱きしめた。ハナは、少し驚いたように身体を強張らせたが、すぐに呼応するよう、その腕を僕の背に回した。
「なっ・・・!ゆっユリエル!コワッパ!あなたなにをっ!」
かつてない焦りを見せるフウの声に僕は少し微笑みながら、ゆっくりハナに最後の挨拶をする。
「・・・僕はね、ハナ。この三ヶ月間が、本当に、人生で一番幸せだったし、楽しかったんだ」
僕の脳裏に、この短い旅の記憶が断片的にフラッシュバックする。
王都で。組合で。鴻鵠亭で。その隣にあるレストランで。大通りで。名もない森で。魔導院で。盗賊団の洞窟で。百年祭で。西方辺境で。僕らの部屋で。
ただの日雇いとして、たったそれだけの狭い世界で、だったけれど・・・僕は自分の人生で初めて、自分で舵をとり、この子たちとともに前に進んできた。
恥も多かった。人もたくさん殺した。僕自身、死にかけもした。憧れた人が傷つくのも見た。二十一にもなって、十四の女の子に秘蔵のエロ本を朗読されて大泣きしたこともあった。でも、それ以上に、僕はこの三ヶ月間が、本当に楽しかった。
ハナたちに会うまで、歪んだ出来損ないの僕は、誰にも気にされることなく、死ぬまでこのままずっとひとりなんだろうと思っていた。でも、違ったんだ。僕ははじめからずっとひとりなんかじゃなかった。ただ、僕がまわりのすべてを拒絶していただけだった。この子は、そんな僕のクソのような虚栄心を、自分自身で閉じこもった牢獄を無理矢理こじ開けて、引きずり出してくれた。神のいないこの世界は確かに残酷で、ろくなもんじゃないけれど、こんなにも広く、明るいんだと気付かせてくれた。
・・・ぼくは、そんな、かけがえのないともだちを、このてで・・・
「ユリちゃん。ぼくも。ユリちゃんに会えて、ほんとうによかった。大好きだよ」
「ありがとう。僕もハナが大好きだよ。・・・さようなら」
僕はハナの首筋に手をずらし、魔素調整をかけて少し強めに眠らせる。ハナの腕が僕の背中から、力なくほどけた。
「・・・フウ。ミオを救うぞ」
彼女も途中から察していたのだろう。胸のあたりで手を握りしめ、神妙な面持ちで僕を見つめる。
「あなたは、本当にそれでいいの?」
「お前たちの最大の目的は、ミオの治療だ。僕の気持ちは関係──」
「関係ないわけないじゃない!それに、“お前たち”じゃないわよ!“わたしたち”でしょうが!」
僕はフウに気圧され、半歩下がる。フウはそのまま僕の後ろに座る教授へ問いかける。
「教授!こうなったってことは、こいつから話を全部聞いたんでしょうけど、ミオの壊れた人格を治療した場合、記憶はどうなるの!?」
教授は眼を閉じ、静かに口を開く。
『わからない。なにせ、一切の臨床記録が残されていない、古代魔法学の魔素誘導技術を、現代の魔導学に応用した──』
「そんな話じゃなくて・・・ああもう!」
僕は彼女が必要とするであろう情報を告げる。
「本当にどうなるかわからないんだ。予想される結果だけでも・・・ハナとミオの人格、記憶が統合される。あるいはその結果、今までに存在しなかった誰でもない者になる。あるいは、単純にハナが消えて、事件前のミオが戻ってくる。そのどれでもないかも知れない。・・・それに、なにか致命的な失敗をした場合、人格そのものが完全に崩壊し、息をするだけの人形になる可能性すらある」
フウの顔が歪み、僕の胸ぐらを掴む。
「あなた!そんなあやふやな話にハナを託すなんて、どうかしてるんじゃないの!?ベルタもなんとか言ってよ!」
「・・・すまない、フウ。話を全部聞いた上で治療を最初に決断したのは、私なんだ」
ベルタは眉間に皺を寄せ、重々しく続ける。
「私は、やはり救えるであろう手段があるのなら、行使し、救うべきだと思う。あの発作にもがき苦しむミオを。この子は、三ヶ月以上もの間、そんな、一人の人間を壊しうるほどの・・・地獄のような記憶と闘い続けているんだ。望みがあるのならば、一刻も早く、救ってあげたい」
僕はゆっくり息を吸い込み、目を開く。そしてフウを見据える。
「外道に堕ちてでも、外法に頼ってでもこの子を救うと豪語したのは誰だ」
ベルタと僕の言葉に、息を詰まらせ、うなだれるフウ。やはり、彼女も迷っているんだ。
「もしうまくいっても・・・ハナが・・・あなたのお姉ちゃんが消えちゃうかも知れないのよ?」
震える声。フウの鼻を伝って涙が滴る。僕は思わず歯を食いしばる。ハナしか知らない僕らだけじゃない、ミオを知るフウにとっても、この三ヶ月でハナはかけがえのない友達となってしまっていたんだろう。僕らの決断で、ハナが消えてしまう可能性がある。こんなの、迷わないほうがどうかしている。
・・・僕はもう決めたんだ。自分の心の安寧と、ミオの苦痛を天秤になどかけられようはずもない。
「僕に、姉はいない」
フウは目を逸らし、袖で拭う。そのまま数秒が経った。
「・・・わかったわ」
よし。僕はフウを見つめたまま伝える。
「ならば準備を始めよう。施術は・・・僕が、行う」
──────────
居間の隣にある研究室へ背の低い簡易ベッドを運び込み、そこへハナを・・・ミオを寝かせる。
『安心したまえふーちゃん。ユリちゃんによる施術を提案したのは私だ。この治療は、体内と体外における魔素の境界がほぼ存在しないといっていいユリちゃんにこそ可能なことだろう』
「なら教授でもいいんじゃない?魔素の境界どころか身体もないし」
フウが的確な指摘をする。薄々思っていたがやはりこの子、頭の回転がかなり早いな。
『鋭いね。しかしあともう二点ある。ユリちゃんは体外における魔素操作を子供の頃から行っていたそうだ。ほぼ本能的に』
「・・・“擬態”・・・」
理解も早い。凄いな。僕も口をはさむ。
「そうだ。こと、体外の魔素を操ることに関して、僕は勘所を心得ている。それに、共同生活をしている人間というのは、脳の魔素流動パターンが似てくるそうだ。それもプラスになりこそすれ、マイナスに働くことはないだろう」
これは、さっき教授に聞いた受け売りだ。
「・・・お前にも手伝ってもらうぞ」
「そう来ると思ったわ。魔素整流ね。精密作業なんだし、はっきり見えてないと出来ないでしょ。やってやろうじゃない。やるからには絶対に成功させるわよ、コワッパ」
彼女も吹っ切れたようだ。僕は頷く。
「魔法に通じていないことを、これほどもどかしく感じたことはかつてない。せめて横で、手を握らせてくれ」
ベルタが僕の横に座る。
「心強いよ。ありがとう」
隣の部屋から、バヤルが水を張った桶を持ってきた。
「ほら、何やんのかよくわかんねえけど、こいつも置いとくぞ。治療なら水は要るだろ、たぶん」
正直あまり要らないと思うが、こいつもこいつで僕らのことを心配してくれているのか。
「ありがとう、助かるよ」
一生分の感謝の言葉を言ったような気がしてくる。教授がぱん、と手を鳴らした。
「さあ、施術を開始しよう。私は助手として
僕は頷き、死んだように眠るハナの、大きな耳を避けるように頭に手を当てる。フウがどんと僕の背中に手を当てる。教授は横で、魔素に異常な流れが発生しないかを監視する。目を閉じ整流の効果を待つと、魔素の奔流がだんだんと目の前に広がってくる。
──────────
こと今回は器官単位でマナを制御し、相手をただ寝かせたり、殺したりするという話ではない。現在のハナの脳における魔素流動パターンを調査し、その結果に応じて精密な誘導制御を行う必要がある。ただ“外部”から魔素操作を行うだけでは不完全だ。つまり、僕の魔素を流し込み、ハナの“内面”を正確に知っておく必要がある。確かに、こんな芸当は明確な“境界”を持つ人にはきわめて困難だろう。恐らく、昔この施術を行っていた者も、境界を薄めるために何らかの処置を施されていたものと考えられる。
ほどなく僕は全身の感覚を喪失し、ハナの“全貌”を俯瞰する。・・・なんて、なんて痛々しい光景だろう。
僕の眼前には、砕け散った翠緑色の・・・“宝玉”に見えるものと、それに突き刺さる巨大な“針”のようなもののイメージが広がる。横に見える小さな“宝玉”が・・・まさか、ハナか。
精神の治療。つまり、僕はあの“針”・・・ミオの人格を破壊するに至った強烈な記憶を、なんとかする必要がある。
そう思い、僕がうっかり針に手を伸ばすと、今度はもっと具体的な、イメージが・・・いや、ぼくは・・・ここは・・・
──────────
・・・ぼくは、明かりの消えた薄暗い自分の家にいた。周りには知らない男の人が五人。黒毛の冷たい目をした人、大声で笑う、赤毛の大きい人、血のついた剣を持つ王国の人が三人。奥には・・・ああ、お父さんと、お母さんだった、染みが。ああ。あああ。お姉ちゃんが。ひどいことをされて、たすけてって、おねえちゃんが──
「────!」
「────────!!」
ぼくは手を掴まれて、握らされた包丁が・・・
──────────
僕は跳ね飛ばされるように後ずさり、背後の棚に身体を打ち付けた。並んだ実験器具が落ち、硝子の割れる音が部屋に響く。僕はがくがくと身体を震わせながら、手を凝視する。
──手に、ぼくの手に、おねえちゃんの、血が、たくさん──
「あああああああっ!ちがっ、ちがうッ!ぼくじゃない!あああっ!!」
「まずい!」
ベルタが目を見開き僕の四肢を押さえる。
「これはミオの発作か!なぜユリエルに!」
「どいてッ!」
フウが僕を殴り、胸ぐらを掴んで耳元に叫ぶ。
「あなた!あれだけわたしに偉そうなこと言ったでしょ!しっかりしなさいっ!」
頭が一瞬真っ白になり、僕は急に我にかえった。辛うじて手でフウを制止すると、掴んだ胸ぐらを離され、床にへたり込む。
肩で息をしながら、周囲を見渡す。・・・間違いない、研究所の中だ。手にも、血などついていない。いつの間にか、全身が汗でびっしょりだ。目を閉じ、大きく深呼吸をする。
「何が、あったのかね。一瞬、ハナちゃんの魔素流動と、きみのそれが完全に同調・・・いや、同化していたように見えた気がしたが・・・」
教授が僕に訊く。何があったのか・・・。僕はあの光景を思い出し、強い吐き気をおぼえた。横にある水を張った桶に、胃の内容物を勢いよく吐き出す。口を拭って壁にもたれかかると、鼻から血が垂れた。殴られた時に切れたか。
何があったのか・・・僕も知りたいくらいだが・・・頭に手を当て、想像の範囲内で話す。
「・・・おそらくですが・・・気のせいじゃありません。僕は、ミオとして・・・彼女を壊すに至った記憶を、追体験したんだと思います」
「なんと。やはり危険だ。このままでは君まで壊れてしまう可能性がある。仕方ないが中──」
「あんなものを見たんだ!ここで止められるはずがない!」
記憶の内容を思い出し、思わず叫んでしまう。・・・畜生、畜生。なんてことだ。
「・・・ミオは、三ヶ月前・・・」
ベルタが僕の口に手を当て、制止する。
「それはきみのじゃない。ミオの記憶だ。おそらく、相当にひどいものを見たんだろう。つらいだろうが、ここでおおっぴらに話していいことではないと、私は思う」
「・・・実際、気になるところではあるけれど、わたしもそう思うわ」
フウも同意見のようだ。・・・そうだな。これはミオの記憶だ。勝手に僕が他人に言いふらすべきではない、か。
ただ・・・ひどすぎる。親を細切れにされ、姉が暴行される一部始終を見せつけられ、笑いながらそのとどめを刺させるだと。人間はこれほどまでのゴミクズに成り下がることが出来るのか。
子供のような顔で眠るミオを見る。自然と目に涙が浮かび、歯を食いしばる。この子はこんな記憶を、三ヶ月もの間反芻し続けていたのか。僕なんかより余程つらい思いをしていたんだな。
ようやく思考が整理できた。僕は教授に何があったかを客観的に伝える。
「・・・ミオの壊れた人格と、その原因となる記憶。これを確認できました」
「とりあえず、一歩進むことができたようだね」
教授は真剣な表情で頷く。
「問題は、その記憶に対処する方法です。直接干渉しようとすると、あれに取り込まれることになる」
「魔素に自他の境界がない、ゆえか」
教授は少し考え、人差し指を立てる。
「ならばあえて薄めの境界を作ってみよう。私が君に魔素防壁を展開する。被術者からのフィードバックに対して、多少の効果が期待できるだろう」
「なるほど」
・・・境界のない人間が他人の魔素に同調しようとすると、行き過ぎて同化にまで至る。それならば、あえて薄く境界を作る。アリだな。しかしもう一つ何か欲しい。僕が取り込まれてまうのは、恐らく・・・
そこまで考えて、あることを思い出した。そうだ。ベラニエの蕾。その効能は、意志強度の増強。だが、流石に蕾はないだろう。葉の方なら、もしかしたらバヤルが持っているかもしれない。
「バヤル。ベラニエの葉は持っているか?」
「ん、ああ。茶に入れるためにな。王都に帰るときは、越境する前には捨て──」
「よし、少し分けてくれ」
少し逡巡してから、バヤルは鞄から小袋を取り出した。
「いいのか?」
「ここじゃ問題ない」
刻む前のベラニエの葉を直接噛む僕を見て、バヤルが微笑う。
「一緒に旅をしてたった数日だけどさ。なんかお前、結構変わってきてるぜ」
僕自身が一番わかってる。こんなこと、以前の僕なら出来なかっただろう。
「必死なんだよ」
再度、治療の準備が始められる。
神様。どうか。・・・僕は自分が無意識にそう考えたことに、一瞬遅れて気付いた。クソ馬鹿が。そんなものに頼っている場合じゃない。今重要なのは、僕の意志と魔素操作、誘導技術だ。
僕は大きく息を吸い込み、ハナの頭に手を当てた。
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