32 “贖罪 III”

 教授は目を閉じ、重々しく口を開く。


『実に、実に心外な話ではあるが・・・』


 だが、すぐにその表情はもとの明るさを取り戻す。


『うん、こんなところで立ち話もなんだね。長くなりそうだ。奥の居間でゆっくり話すとしよう』

「えっ、あっ、はい・・・」


 どうにもこちらのペースを崩してくる人だ。この人なりの、会話の主導権イニシアティブを握る手法なのだろうか。

 僕らは白を基調とした玄関から、落ち着いたワインレッドのソファが並ぶ居間へと通される。どうにも研究所という雰囲気は感じられない。もとは別荘だとバルトリア博士は仰っていたか。


『大変、大変申し訳ない。お茶を切らしているんだ。・・・あれは、何年前になるのだろう。ある日を境に、外と一切の連絡が取れなくなってしまってね』


 バルトリア博士らとの伝書鳩のやりとりのことか。教授はそう言いながら、様々な柄のカップに水を入れて僕らに振る舞う。・・・ただの水を飲んでおいしいと思ったのは、正直初めてだ。ここは山の上だし、湧き水なんかはないだろう。カルデラ湖も雨水の集まりだろうし、深い井戸でも・・・ああいや、こんなことに感心している場合じゃない。ようやく僕の思考が少しずつ現実に追いついてきた。話を整理して、事実を洗い出そう。


「恐らくですが、僕らと教授の間には、互いに知らないことが多くあるはずです。まずは情報を出し合い、すり合わせをする必要があると考えますが」

『そうだね。私もそう考えていた。この身体では、この研究所から外に出ることが出来ない。自らの複写を行った時点・・・王国暦で言えば一七八年の十二月から、私は外の状況をほぼ知らないのだ』


 やはりそうか。今までの話しぶりでそれについては予想がついていた。教授は顎を撫でながら話を続ける。


『私は肉体から解放された結果、死と、これ以上の老いがなくなってしまった。実際にこうなってみてわかったが、それは時間に対する感覚を大きく歪める。日付を数えることにも意味を見出だせなくなり、早々にやめてしまった。ゆえに今が何年の何月なのかもわからない』

「最近年が明けました。今日は王国暦二〇〇年、一月十四日です」


 教授の手が止まり、瞳が左右に動く。今までのような芝居がかっている素振りが無い。本当に驚いているのだろう。教授は頭に手を当て、溜息をついた。


『あれからもう、二十二年も経っていたか・・・いや、待ちたまえ。そうすると、君も二十二歳ということになるだろう。しかし、その風貌は明らかに・・・』

「それも含め、まずは僕が理解してきた事実を、順を追って話したいと思います」


 僕は目を閉じ一呼吸置く。話の流れを頭の中で大まかに組み立ててから、口を開いた。ここからは、こちらのペースで話をさせてもらう。


「僕の今の名は、ユーリエル・テス・エルシダシアです。ご指摘の通り、今年で二十二になりますが、十歳前後から身体の成長が停止しています」

『“エルシダ家被後見人たるユーリエル”・・・』

「はい。王国東方領主、エルシダ家のもと第二秘書です。両親は一七八年に発生した“北方の災厄”で他界、祖母とともにエルシダ家に保護された・・・そう、聞かされて育ちました。北方領は・・・僕の物心が付く前には、そのほぼ全域が低魔量地帯で覆われ、滅亡しています」


 教授は愕然とし言葉を失う。僕は手にしたカップを傾け、少し口を湿らせる。


「幼い頃から、ずっと違和感はありました。公文書上なぜか存在しない両親、周囲が言い聞かせてくる矛盾を孕んだ出生にまつわるエピソード、十歳を境に成長を止めた身体・・・そして、僕の人生に奇妙な符合を多く含む、“死の大地”、“北方の災厄”にまつわる言い伝え。曰く、“流れの術師が出来損ないの世継ぎに大地のマナ環境魔素を注ぎ込み、枯れた北方は死の大地となった。出来損ないを殺して大地にマナを返せば、北方は生き返る”」

『・・・なんと、なんという・・・』


 教授の声は震えている。僕を凝視する視線が揺らぐ。


「否定する根拠が欲しく、僕は文献を漁り続けました。屋敷の書庫で、入学した魔導院の図書室で、時には王都の公文書館で・・・。ですが、見つかる文献はどれも、疑念を深めどもすれ、薄らげてくれることはありません。北方領の終焉、二万八千六百の領民と領主一族、その無念の最期。そして、その結果生き存え、姿を消した“出来損ない”の忌み子と一人の使用人。それが逃げた先で頼ることになろう縁戚がまさに、僕の仕える東方領主でした」


 元々頭の中で組み立てていた内容から、既に話は完全に逸れている。自覚している。なのに止めることができない。僕の口はもはやほぼ勝手に自分の半生をまくし立てていた。


「そしてつい数ヶ月前、“祖母”が亡くなりました。僕が祖母とばかり信じていた“北方領主付きのメイド”は僕をこう呼んだ、“誇り高き北方領主が嫡子、ルカ”と」


 ただ淡々と事実を伝えようと思っていたのに、無意識に拳に力が入る。汗が歪んだ眉間を伝う。治ったはずの腹の傷が疼く。僕は自分のシャツを強く握る。


「僕は確信した。自分こそ、北方のすべてを犠牲に生き存えた出来損ない。呪われた子。ルカ・エト・ベルフェリエであったと。確信せざるを得なかった。それからすぐアルフォンソ様に暇をいただいた。そして登録自警団員となった。僕に刻印を施した“流れの術師”を・・・教授、あなたを探すために!」


 僕は怒りを帯びた眼で教授を見据える。そこには、悪の大魔法使いなどではない、ただ困惑し、萎縮した老人の姿があるだけだった。


「ここに来たのは、教授、王国が発行した特務によるものです。このカルデラの周縁部はマナが枯渇してきた結果、北方と同様、死の大地となっています。僕らは、その調査と、可能であれば“対処”をするためここへ来ました」

『・・・周辺の環境魔素には影響を及ぼさぬようにしたつもりだが・・・まさか・・・』


 ここまで話しながら、僕はある仮説を立てるに至った。

 いや、ずっとそうなんじゃないかとは考えていたんだ。

 ただ、認めたくなかっただけで。

 ・・・言い伝えでは、そうしろと最初から言われてたんだ。


「環境魔素が極端に希薄であるため、あらゆる生命の活動が阻害され、内部の物理法則すら異なる“低魔量地帯”。これに“対処”する方法について、僕は仮説を立てました。立証のためいくつか質問をします。答えて、いただけますね?」

『・・・わかった、すべてに答えると約束しよう。述べたまえ』


 口調は教授のままだが、その顔は尋問を受ける被告人のようだ。


「第一に、僕と・・・おそらくこの屋敷にも施されている“刻印”、これは実質同じもので、周辺の環境魔素を取り込む効果を持つ」

『そうだね。・・・君ならば知っているかな。刻印というのは魔法学から拝借した言葉で、実際には、ある物質に特定の魔素流動パターンを記憶させ、自動的にそのパターンを反復するよう調整した・・・魔素回路とでもいおうか。そういったものだよ』


 それについては知っている。まだ一般化はされていない技術だが、僕の体質はその“刻印”を施すことについて極めて適性が高い。鹿狩りの時にもそれを利用して即席の罠を張った。言葉の定義上は、人脳・・・いや、生命全般が、広義の“刻印”といえるだろう。


「第二、刻印により取り込まれ喪失した環境魔素は自然回復しないか、あるいはその回復にきわめて長い時間を要する」

『そのようだ。私はスケールモデルから算出した適正な回収量を設定したつもりであったが、マナの巨視的マクロな振る舞いに対する理解が不足しているゆえの誤算があり、“低魔量地帯”の出現はその結果と思われる。・・・致命的だ。あまりにも致命的な、見落としだ』

「二十二年前に王国を襲った大旱魃、これが北方にのみ甚大な被害を齎したのは、言い伝え通り、僕の“刻印”に起因する可能性が高いでしょうね」

『・・・否定、しきれない』


 そう、否定しきれないんだ。残念なことに。


「教授、あなたは眼ではなく、魔素で人間を観ていますね。第三、僕は固有魔素を持たず、環境魔素を代謝するため、“個体”と“周辺”の境界が著しく希薄である」

『・・・その通りだ。私は存在しない感覚器官を、魔素で代替している。この会話も、君たちの脳を流れる魔素に干渉することで行っている。そして、君の身体を流れる魔素の波長は環境魔素と同質であることも確かだ』


 こうも符合してしまうとな。言い伝えは真実だ。


「やはりそうでしたか。では最後にひとつ。極めて初歩的な話だ。生体が活動を終えるとき、体内の魔素は周辺に散逸する・・・環境魔素として!」

『・・・待て、ルカ君、きみは!』

「つまりだ!僕が北方で死ねば!」

『ルカ君ッ!』

「“出来損ないを殺せば”!“北方は生き返る”!!」

『ユーリエル君ッ!!』

「ユリちゃんッ!!」


 教授の怒号が屋敷を震わせ、隣に座っていたハナが僕の頭を抱き寄せる。


『・・・声を荒らげて済まなかった。だが、決して、決して君の死が、起こってしまった災厄を解決することはない!』


 クソが。ふざけるな。僕が何のためにここまで来たと思っている。僕はハナの腕を払い除け、立ち上がる。


「だったらッ!僕はどうすれば北方を滅ぼした罪を!二万八千六百の命を奪った罪を!親殺しの罪を!を、贖えるというんですか!」


 教授の眉間に皺が寄り、その眼には・・・憐憫、のようなものが見える。畜生。僕は涙を滲ませながらぶちまけ続ける。


「僕は!僕の責任を!自らの手によって果たさねば──」


 すると立ち上がり、つかつかと歩み寄ってきたフウが僕をひっぱたいた。視界が揺らぐ。思わずソファへ尻餅をつく。僕はただ頬を抑え、呆然と彼女を見上げた。


「・・・あなた、死に場所を探していただけなの?」


 教授が強く眼を閉じ、後悔の滲む声で言う。


『私が思うに、君に必要なのは、贖いでも、懺悔でも、ましてや罰でもない。それはただひとつ、赦しだ』


 少し経ち、僕はおぼろげに自分のことを理解しはじめる。


『他の何者が何と宣おうと、当事者として私は断言する。北方の災厄、それはひとえに、私の未熟さと・・・思い上がりによって齎されたものに他ならぬ。二万八千六百の領民ときみのご両親を死に追いやったのは、間違いなく私ひとりの責任だ』


 僕は、心の底で、ただ誰かに罰して欲しいと願っていただけだったのだろうか。


『つらい、本当につらい思いを、させてしまったようだね。この事実は、人の身が背負うにはあまりにも、あまりにも重大ものだ』


 悲劇の主人公ヒーローを気取って、誰にも理解されないと決めつけ、城壁のように積み上げた虚栄心プライドで、腐り果ててしまったちっぽけな心を守っていただけなのだろうか。・・・いや、違う、違う。


『きみには何らの咎も、罪も、責もありはしない。私がただ、未完成の技術で君を救おうと、そして自らの命が尽きたあとも研究を続けようなどと考えたがゆえ起こしてしまったことだ』


 こんな言葉遊びで僕が赦されていいはずがない。そんな思いはまだ心に燻る。いや、“赦されていいはずがない”?いったい誰に?

 ・・・ああ。僕、自身か。


『賢い君のことだ。この結論にも辿り着いていたのかもしれない。だが、周囲の大人が全員で君を庇い、隠そうとしたことだろう。“疚しいことがあった”という誤解、それも無理のないことだ。よくぞ、よくぞ堪えて、ここまで来てくれた』


 教授は優しく、力強い眼差しで僕を見据えた。


『きみは、自由だ』


 自由。ただそれだけの言葉で、僕の中に十年間堆積してきた疑念と、鬱屈が少しずつ溶け出していく気がした。なんだ。ぼくは、だれかに、「きみのせいじゃない」と言ってほしかっただけなのか。こんなのまるで、幼児じゃないか・・・


「・・・僕は・・・」


 僕は、ずっと縛られていた心をいきなり解放されたように感じ戸惑う一方、使命のようなものをうしなったような、奇妙な喪失感をおぼえた。


「ぼく知ってるよ、ユリちゃんがね、ずっとがんばっていたの」


 ハナはそう言って、力なくうなだれる僕の頭を撫でる。そうだ。ハナだけはずっと僕を見ていた。ハナは僕に壊れた自分ミオの姿を重ね、懸命に救おうと、赦そうとしていたのだろうか。僕は、その手を払い除けて・・・

 僕は、ただ一言呟く。それが精一杯だった。


「・・・そう、だな」



──────────



「終わったか?」


 バヤルが欠伸をしながら身体を伸ばす。実際他人事だろうけど、本当に図太いなこの男は・・・


「俺たちは国の仕事でここへ来てる。こいつユリエルの過去に何があったかなんて話より、これからどうするかって話のほうが重要だと思うんだけど」


 言い方は腹立たしいが、きわめてもっともな意見だ。ベルタがカップを傾け口を開く。


「いや、いずれにせよ教授には外の状況を知ってもらう必要があった。それで、この屋敷の周囲には、集められた環境魔素が高い密度で漂っているそうだな。先の話を勘案するに、その・・・“刻印”を破壊すれば、ここに関しての問題は終結すると考えて良いのだろうか」


 神妙な表情を保つ教授が頷く。先程までの明るさはすっかり失われてしまった。


「そう推測できるね。この辺りの環境魔素の密度が高いのは、私が個としての意識を保つために必要で、そう維持していたからだ。刻印を破壊することへの代償は、私が個として存在出来なくなるというただ一点。迷う必要はないよ」


 フウがカップの水を揺らしながら口を挟む。


「でも、今すぐ教授に消えてしまわれたらちょっと困るわ。ひとつ、聞いてほしい話があるの。私たちもここまで長旅をしてきた直後だし、少し時間を置いてからにしない?ユリエルもそれでいいでしょ」


 ハナとミオの治療か。話を僕に振られたが、僕はどうにも何か気が抜けてしまっていた。十年に及ぶ葛藤の決着が思わぬ形でついてしまい、どうにも思考の整理が追いつかない。形にならない漠然とした思いが去来する中、ただ口から空気が漏れるような声で応えた。


「ああ・・・そうだな」


 それを聞いたフウは呆れ顔で溜息をつく。少しすると、教授がぱん、と手を鳴らし、少しだけその表情に明るさが戻った。


「では、今日の討議ディスカッションはここまでとしよう。夕食の時間も近いが、食べ物もその・・・切らしていてね。私には必要がないもので」

「ああ、それなら構わねえよ。山腹でちょいと分けてもらってきた」

「それは良かった。休むなら、二階の客間には十分な空きがある。ゆっくりしていってくれたまえ。浴室も自由に使うといい。薪は研究所の裏から──」


 周囲が俄に賑やかになる中、僕は静かに俯き、いまだ思いを巡らせていた。その右手をハナが握り、心配そうにこちらを見ている。この子には、迷惑をかけっぱなしだ。


 うっすらと、やるべきことは思い浮かびつつある。

 僕がやるべきことは、感傷に浸りながら腹を切ることじゃない。第一、いくら周辺の環境魔素を僕に取り込んだとはいえ、人間ひとりの保持する魔素量で北方一帯の環境魔素を賄い切れるとは思えない。あれほど被害が広範囲に及んだことにも、何か他の原因があるはずだ。

 ・・・僕に使命があるとしたら、それは北方の環境を回復する、確実な方法を探し出すこと──しかし、その前に。この場所で、目の前に、まだやるべきことがある。大きく息を吸い、目を開く。ハナの手を握り返すと、彼女は優しく微笑んだ。



──────────



 白い清潔なテーブルに、不釣り合いな保存食が並んでいく。固く焼き締めた無醗酵のパンに、岩塩漬けの羊肉、岩塩漬けの高地野菜。それを見た教授が、食べられもしないのに嬉しそうにバヤルと話している。


『これは懐かしい!私もベラティナの大天幕へ寄った際、振る舞ってもらった覚えがあるよ!』

「冬はこれしか食うもんがねえからな。たまに兎が取れれば万々歳だ。それ以外の日にはだいたいこいつが出てくるよ」

『この漬物はなんというのかね?私はこの少し酸いやつが好きでね。舌がないのがとても、とても残念だ』

「名前なんてねえよ。ただの漬物さ」


 その横で、フウが僕を見て不思議そうに問いかけた。


「ねえコワッパ。あなた、自分の身体が成長しない件は教授に聞かなくていいの?」


 耳聡く聞きつけた教授が、僕が答える前に話へ割り込む。


『恐らく、彼はそれが、私には回答し得ない問題であると考えているのではないかな。実際、経過を観察していないので、その原因を今から確定することは困難だ。想像で考察するしかない。私の施した刻印が元凶であることには間違いないと思うのだが』


 教授はすっかり調子を取り戻したようだ。僕もこれほどの切り替えの早さが欲しい。


「あー、まあ、もうなんか、いいかな。この姿での処世術は身についたようにも思うし、実害もない・・・いや、そんなに多くは、ないしな」


 年齢相応の見た目になれるのならばありがたいが・・・いきなりそうなっても僕自身が対応しきれない気が少しする。自棄になっているわけではないが、なるようになるだろう、という程度の認識になりつつある。僕はパンに肉と漬物を挟んでかじりつく。


「それでその刻印って、どこにあるの?見てわかる場所?」

『睾丸だね』

「ゴフぅっ!」


 食卓であまり出ない単語が教授から飛び出し、僕は思わず咀嚼しているものを吐き出しかける。空気が一瞬凍りつく。


「・・・は?」

『解剖学的表現ではわかりにくかったかね?俗に言う金た・・・』

「いやわかるよ!」


 バヤルが突っ込む。


『そうかね、それは良かった。だからだね、“刻印を破壊する”処置を取る場合、それを別の単語で言い表すと──』


 ・・・最悪だ。最悪の展開だ。僕はひとつだけ頭に浮かんだ単語を力なく吐く。


「・・・去勢」

『うむ。そうすることになってしまうね』

「あらー」


 フウが口に手を当ててにやける。人の不幸をなんだと思っているんだお前は。溜息をつきながらそうした場合の僕の身体の変化を簡単に想定し、話す。


「あー、フウ。残念ながら刻印の破壊は、成長がはじまるどころか、恐らく僕の体内での環境魔素の流入と循環が止まって、徐々に散逸。その後ゆるやかに死ぬことになる。自殺するならもっとラクで手っ取り早い手法を採るよ」

『その推察に異論はない。処置は執行するべきではないだろう』

「あら。男じゃなくなったちゃんがどう成長するか、ちょっと楽しみだったんだけど」


 僕は話しながら、ひと月前にパン泥棒を脚で挟み込んだときのことを思い出した。・・・あれは、本当に命の危機だったんだな。


「睾丸・・・魔素・・・成長・・・」


 フウが食卓に相応しくない不穏な単語を、僕の向かい席で繰り返し呟く。なんだ。嫌な予感がしてきた。


「あっ」


 ・・・何かに感づいたような声をあげるフウ。しかしほぼ同時に僕もおそらくは同じことに気付いた。フウはぴょんと椅子から降り、みんなが座るテーブルの前に立つ。

 このままではまずい!僕より近いのは隣に座るベルタだ!


「ベルタッ!今すぐフウを・・・!」

「ウフフフヘヘヘ、ベルタ、ユリエル押さえといて」

「任せろ」


 真っ先に僕の方の襟を掴むベルタ。こいつ・・・!


「教授、わたしは今の話から、ある仮説を立てるに至りました」

『ほう!?』


 わざわざ僕の動きと口調を真似て教授に語りかけるフウ。教授の方も興味津々だ。

 やばい!止めなきゃ!いますぐ!


「やめろ!おい!こら離せこの、畜生!」

「これから立証のためいくつか質問をします。お答え、いただけますね?」

『わかった、すべてに答えると約束しよう。述べたまえ』


 フウは一息置いてから話をはじめる。極めて理路整然と。ゲスい顔で。


「第一に、ユリエルの睾丸にある魔素を収集するための“刻印”。これは、生後間もないのユリエルの、著しく不足する固有魔素を環境魔素で代替するためのものである」

『そうだね。刻印を施した箇所について、睾丸が一種の魔素ポンプとして、体内での循環を促進させる器官のひとつであるという点を補足しておこう』

「第二、これはわたしの推測ですが、マナは生体の生長にも利用される」

『うむ、そうだね。すごいねふーちゃん、魔導院入学を私の名義で推薦してあげたいほどだよ。私のようにマスクをつければ通えるはずだ』


 いつの間にかハナと同じ呼び名でフウを呼び、拍手する教授。いつそんなに仲良くなったんだ。


「以上から、“乳幼児を救う”ために刻印を施した教授は、成長後に必要なのことを忘れていたと推察される」

『・・・口惜しいが、まったくもってその通りだ』


 問題はこの先だ!成長が止まった理由、それはもはやアレしか考えられない!


「待てッ!フウ!お前はッ・・・!!」

「つまり!ユリエルの成長が止まったのは精通によるもの!このコワッパはそれ以来毎日ひとりでは、身体いっぱいに溜め込んだ魔素を環境に振り撒く大盤振る舞いをしていたってことね!環境から溜め込んだ貯蓄を利用しきったあとは、身体の生長に使われるはずのぶんまでも!」

「言うなあああああああ!!」


 「ああ!」と納得がいったふうのベルタ。肉を千切りながら苦笑いするバヤル。ハナだけがいつものようにきょとんとしていた。


『言葉を飾らずにいうと、その可能性が最も高いだろうね。なに、ユリちゃん。年頃の男子はそうでなくては。恥ずかしがることはないよ』

「ねえねえユリちゃん、せいつうってなあに?」

「あああ畜生ッ!ユリちゃんって言うな!殺してくれ!殺して北に埋めてくれ!!」


 もう突っ込みも追いつかない。僕は顔を覆ってただこの刻が過ぎるのを待つことしか出来なかった。教授は淡々と解説を続ける。


『彼の魔素は、“内外”の境界がきわめて希薄だ。ゆえに、刻印を施すことで、睾丸が魔素を代謝する器官となってしまったのだろう。それに、おそらく刻印があることでやや・・・というのは些か控えめな表現になるか。人一倍、ユリちゃんの性欲は強かったことだろう。無理もあるまい。行き過ぎた我慢というものは、だいたい健康に悪いものだ』

「で、毎日いたしては周辺に魔素をふりまき、彼がしこるところでは五穀豊穣、花は咲き乱れ・・・あら、なんかこういう農業の神様いそうじゃない?」


 ・・・クソが。否定しきれないんだ。残念なことに。東方は元々農業が盛んだが、十年ほど前から作付面積あたりの石高が急激に二割ほど伸びている。その原因はずっと謎だったんだが、まさか僕がそうだとは・・・


『自然信仰というものは、存外こういうところから生まれてくるものなのかも知れないね』


 そんなことあってたまるか。形容し難い、真っ赤で歪んだ顔をした涙目の僕を、満面の笑顔でハナが覗き込んだ。


「ユリちゃんってすごいんだね!」

「・・・はは・・・そうだろ?・・・はあ・・・」

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