第42話 そろそろ、ラスボスのお時間ですよ①
翌、土曜日。
類は仕事だというので、片倉とともに大阪へ出かけた。社長も来るらしいので、大阪に泊まるという。
やけに元気がなかった。
妊娠中は、さくらを抱いてはいけないという禁止令が出たからだ。胎盤の様子も気になるし、行為そのものが母体によくない。
さくらは今日、退院する。類が留守なので、もう一日医院にいてもよかったが、部屋の様子が心配だった。
それに、聡子が東京から来てくれるという。いろいろと手伝ってもらうつもりでいる。ただし、家事下手ゆえに、やや心細いけれど。
特に、おなかが痛いということもなく、日常の生活ができそうだった。
「なにかあったら、いつでもいいからいらっしゃい。我慢しちゃだめよ」
文子医師は何度も念を押した。
次の健診日の予定を立てていると、聡子が現われた。今日は、黒いシックなスーツを着ている。足もとは、ヒールの低いパンプス。こちらも黒だが、やや光沢がある。そして、きっちりメイク。相変わらず、若くてうつくしい。
「失礼します、こんにちは。さくらちゃん、どう?」
「わざわざありがとうございます、お母さん。こちら、文子先生。類くんのマネージャー・片倉さんのお母さんなんだって」
「まあ、それはなにかの縁ね。娘がお世話になりました、母の聡子です。今後もよろしくお願いしますね。類も、いい子なんですがやんちゃで」
「ふたりとも、いい若者ですよ。元気な赤ちゃんが生まれるように、手伝いたいと思います」
「そうね、赤ちゃんよね。いざとなると、驚いてしまって。昨日はそわそわして、ほとんど仕事にならなかったわ」
「聡子さんでも、上の空になったりするんですね」
さくらはまばたきをした。
「私はしょっちゅうよ。涼一さんにも『しっかりしているのに、抜けているところがある』って、よく言われる。でも、ほんとうにおめでとう。自分のことのようにうれしい。このあと退院するのよね、荷物を片づけようかしら?」
「ありがとうございます。だいたいの荷造りは終わっています。大きいものは、昨日のうちに類くんが持って帰ってくれました。あとは、これを運ぶだけですね」
窓際のイスの上に置いてある、小さめのボストンバッグをさくらは指差した。
「まかせて。妊婦さんに、重いものは持たせられない」
おおげさに、力こぶを作ってみせる聡子だが。
「お母さん。それ、そんなに重くありませんよ」
バッグをかかえてみて、拍子抜けしたらしい。
「あら、ほんとうに。今日、類は泊まりがけの仕事なんでしょ?」
「ええ。明日、夕方に戻るって言っていました」
「あなたたちのマンションに、今夜は泊まってもいいかしら? あの子にも言いたいことが山ほどあるし、類が帰ってきたら私は東京へ帰るわね」
「はい、もちろんです」
とりあえず類に説教しなきゃ、というふうに聡子は話したが、実はさくらをひとりにしておけないと思っているようだった。
「妊娠なんて、遠い昔のことだから、アドバイスもなにもできないんだけど。類とさくらちゃんの子ども……まさか、ま、孫!」
「そうなりますね」
「さ、さんじゅうだいで、孫。おばあちゃん……!」
「ですね。父さまも、孫だって気にしていました」
「どうしよう、類とさくらちゃんの子なら、まず間違いなくかわいいわよね。うふふ、孫まで芸能界デビュー? 困るわ、私」
妄想世界に入ってしまった聡子は、とても楽しそうだった。
さくらは自分で退院の手続きを済ませ、タクシーを呼んでもらった。
「とてもいいお部屋ね、ここは。広いし、眺めもいいし」
マンションに到着すると、聡子はさっそく新居チェックに入った。
数日間、類だけで過ごしていたわりには室内がきれいだった。大学へ行き、仕事をこなし、入院中のさくらの世話に、慣れない家事までこなしていたのかと思うだけで、胸が切なく、苦しくなる。
「吹き抜けのメゾネット。眺望は京都御苑、三十六連峰。ふたり暮らしなのに、贅沢だわね。私も、あなたの年齢ぐらいの若いとき、こういう部屋に住みたかった。赤ちゃんの玲と類をかかえた毎日は、とてもつらかったもの」
聡子はしばらくの間、しみじみしていた。昔を思い出したのだろうか。
「……お母さんは、上の階にある、サブの寝室を使ってください」
「うんうん、ありがとう。私の新婚時代とは、大違い。さすがの類、やるわね」
「がんばっていますから、類くん。いつも感謝しています」
さくらは、聡子に聞きたいことがある。類の出生について、武蔵社長の言っていたことがほんとうなのか、知りたい。
けれど、どう切り出そうか。さくらはソファに寄りかかりながら、浮かれている聡子を観察した。
真実、類が武蔵との間の子どもなら、聡子は浮気をしたということになる。
さくらが知っている限りの聡子は、涼一に一途だし、高幡家との結婚が家の方針であっても、当時の夫に隠れて不貞を働くようには見えないのだ。ただし、さくらが個人的に汚い目で聡子を見たくないだけ、かもしれないけれど。
「お茶、淹れますねー」
上階で景色を眺めている聡子に向かって、さくらは話しかけた。
「気をつかわないでいいのよ」
「だいじょうぶです。妊娠は、病気ではありません」
さくらが立ち上がったところへ、来客があった。
インターホンの画面に、知っている人物の姿が浮かび上がっている。
「……社長さん」
『大阪へ向かう途中なんだが、見舞いに来てやったぞ。喜べ。少し、話もある』
こちらも話がある。飛んで火にいる虫……いや宿敵の来訪に、さくらは震えた。
「どうぞ」
『上がっていいのか。類のいないときに? 随分と、ガードがゆるい女だな』
「部屋に、家族がいます」
『家族? 兄貴か』
違います、と否定しようとしたが社長が画面から消えた。エレベーターホールへと移動したようだ。
「あれ、誰か来た?」
軽やかにスリッパの音を響かせて、聡子が下りてきた。
「はい。座ってください、お茶を出しますので」
「いいのよ、飲みたくなったら自分でやるから。コーヒーなら上手いのよ、こう見えても。でも、妊婦のさくらちゃんには、カフェインを摂取させちゃだめね。あとで、デカフェのコーヒー豆を買ってくる」
「ありがとうございます。とりあえず、ほうじ茶です」
玄関ドア前のチャイムが鳴った。さくらは覚悟して対決の姿勢を作った。
一度、自分のおなかをさする。私たちの赤ちゃん。どうか、力を分けてほしい。
「誰、誰?」
「聡子さんもよく知っている方ですよ、ほら」
「こんにちは、おじゃまします……聡子、久しぶりだね」
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