第41話 敗者による最後の訴えは、ただ虚空に響くのみ②
玲よりも憐れだったのは、父の涼一だった。
類が午前中のうちに電話をしたようで、連絡を受けてすぐ、京都を目指したようだ。
「さくら、さくらあああ。私のさくら!」
看護師の目も気にせずに、涼一はさくらの姿を認めるなり泣き崩れた。号泣である。たぶん、廊下にもわんわんと響き渡っていることだろう。
……恥ずかしい。
玲や祥子が帰ったあとで助かった。片倉も、文子医師と別室に下がっている。
「涙もろいのは知っていたけど、大げさだよ。父さま」
「しかし、さくら。こんなに早く、とうとうその日が来てしまうなんて。聡子との間には授からず、まさか未成年で大学生の娘に先を越されるとは。父さまは悲しい。悲しいぞ」
「どっちかっていうと、喜んでほしいんだけどね。孫だよ、孫! おじいちゃん!」
「ま、孫。孫になるのか……おじい……」
「まだ性別は分からないんだけど、今のところは安静にしていればいいんだって。五ヶ月近くになるまで全然気がつかなくて、毎日忙しくしていたし、赤ちゃんの成長にはいいことをなにもしていなかったけど、明日退院なんだ。無理しないように、普通の生活を心がけてねって。今後は、普通の妊婦健診になるよ」
「大学はどうするんだ、大学は」
「行くよ、もちろん。後期がはじまったばっかりだし、生まれるぎりぎり直前まで、通常生活をするつもり。類くんとよく話し合うけど、出産後も休学せずに四年で卒業したい。来年の四月が予定なんだよ。春休み中に生まれてくれたら助かるなあ、よろしくね」
さくらはおなかに向かって呼びかけた。
「妊婦で通学……ちょっと聡子に電話してくる。はー……」
涼一は顔を青くして、ふらふらと部屋を出て行った。心配や迷惑をかけてしまうだろう。今回の件で、涼一が取材対象になってしまうかもしれない。玲も、聡子も。申し訳ないけれど、もう後戻りはできない。
そういえば、類はどこへ行ったのだろうか。しばらく、玲と祥子とのおしゃべりに夢中だった。豆だいふく、どうなったのか。ああ、今朝から食べもののことばかり考えてしまう。
涼一に会ったら、類はいつもの調子で言い負かしていしまいそうで、怖い。
「ただいま。聡子にも話しておいた。ただ、明日の土曜日にならないと、時間が取れないそうだ」
「聡子さん、ううんお母さんも来てくれるの?」
「当然だ。息子と娘の一大事だ。私からの伝言だけではなくて、直接会って話を聞きたいに決まっている。悪いが、私は今日中に帰るよ。今日の分の仕事を明日に先送りしてしまったのでね。はー……さくらがエロモデルの胤を孕んだとか……」
「ごめんなさい、忙しいのに」
「類くんに比べたら、私なんて忙しいの中には含まれないさ。それに、いくらでも代わりはいる」
「私の父さまは世界にひとり、柴崎涼一だけだよ」
「この、うれしいことを言って抜かす」
「もちろん」
「身体、大切にな。おめでとう。作戦、大成功だな……許すから、できるだけ早いうちに入籍するんだよ。赤ちゃんを迎える準備で忙しくなる前に」
「父さま」
「正直言って、婚約はうやむやにできないか、そればかりを考えていた。さくらの前ではあまり言いたくないけれど、類くんは派手だし、隠れて浮気か、一夜のあやまちでもしてくれて、ふたりの仲が壊れてくれないかと、ひそかに願っていた」
「それ、さりげなく、ひどくない?」
「けれど類くんに、さくらがついていけなくなる日が来る、そんな予感もあった。さくらもさくらで、華やかな類くんに一瞬眩んでいた目が、急に醒めるのではないかと、期待していた。本気だったんだね、少々見くびっていたよ」
表面上はあわてている風だったのに、涼一は冷ややかに眺めていたのだ。
いったんは止まったように見えた涙が、静かにまた流れはじめている。
「泣かないで、父さま。今、私はとてもうれしいし、楽しいよ?」
「……しあわせになるんだよ。いつでも、助けるから」
「ありがとう。私、父さまの娘でよかった。お母さん……絽華さんも、喜んでくれているよね。赤ちゃんに早く会いたい。お母さんもこんな気持ちで、私を生んだのかなって、今は思える」
「そうだね。子を思う母の気持ちは、いつでも同じだよ」
さくらは涼一の手を握った。
「あのさあ、感動的な場面に水を差すようで悪いんだけど、ぼくはさくらをしあわせにするに決まっているじゃん。なに、そんな今さらなこと言ってんの。しかも、オトーサンの脳内では、ぼくが浮気前提ってどういうこと? オトーサンにとって、ぼくってどんな存在? とことん、万年発情期にしておきたい? 今じゃもう、さくらにしか反応できない身体になっちゃっているんだけど」
ドアにもたれかかりながら、類が立っていた。
「るるる類くん、いつからそこに……!」
失言を類本人聞かれていた涼一は、手を口もとをおさえた。
「さくらの、『私の父さまは世界にひとり』あたりからだね。何人、お見舞いに来るの? さくらが疲れちゃうじゃん。玲、祥子、オトーサンに片倉さん? ぼくだけでいいのに」
涼一を無視するように、類はさくらのそばに歩み寄った。
「ほら、念願の差し入れ。遅くなってごめん。買い忘れたから、急いで行ってきた。このぼくが、片倉さんに自転車を借りて、鴨川の土手をすっと飛ばして、人目にさらされながら屈辱ながらも行列して……忘れたぼくが悪いけど!」
類は約束を果たしてくれた。だいふくの紙袋。ずしりと重い。
「待っていました、どうもありがとう」
「つーか。さくらの大学のすぐ近くなんだから、退院したらいくらでも食べられるのに。衆人環視の中、ぼくがどんな気持ちで並んで買ったか、分かってんの? 心が無になりすぎて、悟りが開けそうだよ。あとは、看護師さんのところにも置いてくればいい?」
「お願いします」
「オトーサン、色気より食い気に走ったさくらにお茶を淹れてあげて。あ、ほうじ茶ね。緑茶やコーヒーは基本NGで」
「コーヒー、飲んだらだめなのかな」
「カフェイン、あんまりよくないんだよ」
「そ、そうか。すみません」
強くなりたいとか言い張るわりに、無知な自分をなんとかしたい。
大量のだいふくをかかえて歩く、類の後姿を見て決意した。
「相変わらずだな、類くんは」
指示通り、涼一はほうじ茶を淹れはじめる。
「でも、心強いよ。頼れる」
「お前がもっとしっかりしないと。半年ぐらいとはいえ、年上だ」
「そうだけど、けっこういいバランスが取れているというか、今の状態が心地いい」
「のろけか、まったく」
すぐに戻ってきた類だったが、暗い顔をしていた。
「片倉さんにつかまっちゃった。話があるって。ぼくもいろいろ言うことがあるし、席を外すね。オトーサン、親子水入らずもいいけど、さくらは元気だからほどほどにして東京へ早く帰って。母さん、今晩ひとりじゃさみしいでしょ」
「ああ、そうだね。また来る」
「何度も来なくていいよ。そっちもがんばって。まだやれるでしょ。あ、ついでにお茶もらって行こ。どうもね」
気まぐれな風のように、類は涼一を翻弄して去った。
口先では意地悪ばかりを述べるけれど、父娘の時間が少しでも多く取れるよう、類は遠慮しているようだ。
「根性入れなきゃいけないのは、これからだろうね。類くんの仕事は人気商売だから」
「モデル、辞めちゃうかもしれない」
なんとなく、そう感じていた。
類に、仕事への未練はない。撮影中の類はとても輝いているし、天職だと思う。
けれど、類はモデルだけでは終わらないだろう。武蔵社長が主張するように、世界に出て行くかもしれないし、まったく別のことをはじめるかもしれない。
「辞める? それは無理だろう。うちの会社との契約も続いているから、類くん側からの都合でやめるとなると、莫大な違約金がかかるだろう。さわやか少年モデルを卒業して、オトナモデルとして注目されはじめたばかりなのに、それを自分で壊すなんて、まさか」
「類くん相手に、普通とか常識は通じないよ。もともと、モデルは大学在学中までって決めているみたいだったの。卒業後はまず、お母さんの会社を継ぐんじゃないかな」
「なんと、もったいない。将来は社長かもしれないが、ヒラの会社員になるのか? 人気モデルなんて、なりたくてもなれる職業じゃないのに」
「だよね。でも類くんは、もったいないとか考えていないと思う。常に、次の楽しいことを考えている、そんな人だから」
「私には、これ以上なにも言うことがないね。ゆっくりよく休んで。来週から、大学にはくれぐれも気をつけて通うんだよ」
涼一はさくらの頭をやさしく撫でた。
「はい、父さま。じゃ、一緒にだいふく、食べよ?」
「うん。いただきます……かわいいかわいい娘と食べる、豆だいふく。おいしいな。やわらかくて、もっちりで。ちょっとしょっぱくて……くうぅっ」
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