第37話 必ず守るから④
「さくら!」
廊下に響き渡るような類の叫び声で、さくらは飛び起きた。
「どうしたの、病院にいたんでしょ、なんで帰ってきたの。しかも、病院着で玄関先って。とりあえず、中に入って」
「う、うん。手、貸してくれる? 歩いてきたから、もう身体がぼろぼろ」
「歩いて来たの、西陣から? 信じられない。タクシー、つかまえなよ」
類はあっけにとられている。
「だって、お金がなくて。手荷物、祥子さんが預かったみたいで」
「それに、汗びっしょり。体調は?」
「よくない。ごめん」
「玲から、電話がかかって来たんだよ、こんな時間に何度も何度も。無視していたけど、しつこくて。そしたら、さくらが病院からいなくなったと連絡を受けたって言うじゃん。いったん、荷物を置いて捜しに行こうと思ったら、こんなところに。心配しているだろうし、さくらを見つけたって玲に伝えるよ、とにかく」
「だめ、言わないで! 言ったらだめ、絶対に! るいく……」
騒ぐさくらの口を、類はその唇で塞いだ。
「……夜中に大きな声、出さないで。さくららしくない。もう、十二時過ぎだよ」
そうか、もう十二時なのか。病室を抜け出したのは十時前だったはず。ということは、二時間以上も経っているらしい。時間の感覚がない。
さくらは類にもたれかかりながら、懸命に訴える。
「玲と祥子さんに、言わないで。お願い類くん、私たちを守って。あのね私、病気じゃないんだ」
「こんなに具合が悪そうなのに? ちょっと混乱しているんだよ、きっと。まずは落ち着いて。病院へ戻ろう、ぼくじゃ対処できないよ。不安なら、ずっと付き添う。仕事の途中だったからとはいえ、玲のことばを鵜呑みにしちゃってごめんね。さくらについているべきだった」
「だめ、類くん。私、赤ちゃんがいるの。おなかに。類くんの赤ちゃんだよ!」
「なんだって」
血相を変えた類は、さくらの顔を覗き込んだ。汗や涙で額に張りついた前髪を、指先でそっと分けてやる。
「でも、今は生むべき時機じゃないから、類くんに黙って堕ろせって、ふたりが。勝手に話を進めていて、明日手術させられることになって。私、そんなのイヤだったから、逃げてきた。赤ちゃん、生んでいいよね?」
「もちろんだよ。さくら、よくやった。なかなか妊娠しないから、心配していたんだ。ありがとう、すごくうれしいけど、無理しちゃって。このばか女」
「ごめんなさい」
「知り合いの産院があるから、今からそこに行こう。詳しくは、調べていないんでしょ、赤ちゃんのこと」
「うん。でも、今から?」
「産院は二十四時間体制だよ。いつ生まれるかなんて、赤ちゃんには決まっていないからね。とにかく、診てもらおう。どんな感じ? おなかは? 気分は」
「少し、痛いの。おなか。妊娠も、けっこう進んでいるみたいで。自分でも、なにがなんだかよく分からない。怖い」
さくらは類の身体にしがみついた。
「ひとりで、よくがんばったね」
類はやさしくさくらをいたわった。そのことばだけで、またじわじわと涙が出てきた。
「泣かないで、さくら。悪いのはぼくだよ、こんなに苦しい思いをさせてまで、さくらを孕ませたぼくが悪い。でも、すごくうれしい。ありがとう、さくら」
もらい泣きをした類は、すぐに病院へ電話をかけた。
「今、受け入れてくれるって。着替えたら、行こう」
すべてを類に預けたさくらは急にラクになった。心配しているだろうと、玲に連絡も入れてくれた。ただし、一方的に。
「ああ、玲? うん、さくらが見つかった。転院させるから。うん、生ませる。もちろん! そっちの病院に言っておいて。さくらはぼくのものだから。心配してくれるのはありがたいけど、勝手なことしないでね。じゃあね、おやすみ」
そんな説明でいいのかと感じたが、言い返す余裕もない。
なにしろ、タクシーに乗って揺られているだけでもつらいのだ。必死に歯を食いしばり、さくらは類に寄りかかる。
車で連れて行かれたのは、小さな医院だった。看板には『片倉医院』とある。
「かたくら。あれ、どこかで」
さくらはまとまらない頭で考えた。聞いたことがある名前、どこかで。どこだろう。
「聞いたことあると思うよ、きっと」
「うん、かたくら……」
「寝ていていいよ。おやすみ」
さくらはくたくただった。
無理して祥子の誕生日会に付き合い、倒れ、手術させられそうになり、逃げ、ようやく類のもとに帰れたのだから。
「類くん、だいすき。私たちの赤ちゃんを、守ってね」
「うん、あとはぼくに任せて。よく休んで、だいすきなさくら。ぼくのさくら」
力尽きたさくらは類にすべてを預けて眠ってしまった。
「重い。それに、なにこの安堵の表情は。ねえ、さくら?」
一応、類はさくらに小言を述べたけれど、返事はなかった。
ほほ笑みを浮かべて、類はぎゅっと、さくらを抱き締める。
「苦しめて、ごめん。そして、ありがとう。必ず守るから、しばらく眠っていて」
診察室から、白衣を着た年輩の女性が出てきた。
六十手前ぐらいだろうが、小柄でショートカットのせいか若く見える。銀縁の丸メガネが愛らしい。
「わ、ほんものの北澤くんだ。はじめまして、片倉です。それ、本命の彼女?」
「はい。夜分、申し訳ありません。北澤ルイ……柴崎類です。こちらはぼくの婚約者、柴崎さくらです」
「春先、ニュースになっていた彼女か。あらあら、寝ちゃって。同じぐらい若いのね。ふーん。とりあえず、ベッドに寝かせちゃいましょ」
類は、さくらの身体をゆっくりとベッドに下ろした。
「実は今夜、ほかの病院へ運ばれて妊娠が発覚したんですが、生むならこちらかと」
「へえ、生む。いいわね。じゃあ、診ましょう。どういう状況なの?」
「おなかが痛いというだけで、詳しいことはなにも分かりません」
「よしよし、待っていて」
片倉文子(あやこ)女医は、さくらを診察した。
ぐったりと寝ているさくらを挟んで、類と文子女医が話を続けている。
「彼女の最終生理開始日、分かるかしら」
「うーん。先月は確か、なかったですね。なくてラッキーなノリで、ほぼ毎日していましたし、その前の八月は、ぼくの仕事が忙しくて。七月……もなかったような。あ、でも、ぼくのたんじょうびに、めちゃくちゃ濃いことをしました! あれです、あのときです、きっと! 七月十六日! 以前は、生理日を記録していたんですけど、不安定で参考にならなくて」
「……なるほどね。さわやか少年を演じているのに、せっせと励んでいたんだ? 赤ちゃんの大きさからして、もう四~五ヶ月には入っている気配。ただ、ちょっと胎盤の位置がよくないのは気になるかな」
「位置?」
文子女医は医学書を取り出して広げ、類に図を見せた。
「そう。前置胎盤っていうんだけど、産道の出口を塞ぐようにして胎盤が形成されている。流産や早産になりやすい例」
「治りますか?」
「妊娠が進むにつれて治ることも多いけど、少しおなかが張っているし、なるべく安静にするしかない。もしものときは、ここで出産できないよ。ただの個人医院だから。そのときは施設の充実した大きな病院で、帝王切開になる」
女医は頭をかかえた。
「おなかを切るの?」
「まだはっきりしないけどね。今夜のところはもう寝ているみたいだし、そっとしておこう。詳しい話は、また明日。親御さんにも連絡しておいて。東京だよね。北澤くんのお嫁さんなら、個室にする?」
「お願いします」
「彼女、歳はいくつかしら」
「十九です」
「あら、ほんとに若いんだ。北澤くんも、モデル兼業で大学生……結婚は、まだだったよね」
「婚約中ですが、すぐ結婚します。彼女は二年生で、片倉さんの後輩です」
「へえ、お勉強ができる子なのね。それがなぜか、北澤くんに引っかかるなんて、災難」
文子女医は類をからかった。
「やめてくださいよ、ぼくは本気です。生んで、育てます」
「はいはい。でも、ここに連れてきたってことは、うちの子に筒抜けよ。早朝にでも、やって来るかも」
「ですね。片倉さん、仕事熱心だから」
「ふだんは全然寄りつかないのに、北澤くんのこととなると、目の色を変えるんだから。あの、あほ息子は」
女医は類から目をそらさない。覚悟を確かめているようだ。
「……何回あったかしらね、息子に付き添われて、あなたのお相手が担ぎ込まれたこと。でも、北澤くんがみずから連れてきて婚約者だと言うのだし、この彼女は今までの子とは違う。本気なんだね」
「はい」
「親御さんや事務所の説得。周囲の理解。得られるよう、私もがんばるわ」
「どうか、よろしくお願いします。あと、過去のことはさくらには内密にしてください」
丁寧に、類は頭を下げた。
「そうだね。本命の彼女は地味な女の子みたいだし、きっと刺激が強すぎるね」
さくらは、起きてくる気配がまったくない。
個室への入院準備が整ったさくらの身体は、類とともに移動した。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます