第36話 必ず守るから➂

 午後九時半、消灯。


 泣いたら、だいぶすっきりした。さくらは布団を頭からかぶって、ずっとこのときを待っていた。


 玲。今でも思ってくれているなんて、うれしかった。

 祥子さん。頼もしかった。ほんとうにありがとう。


 でも、ふたりには、任せられない。これは自分のこと。類くんとのこと。

 いくら類くんがピンチだからって、『今回は残念だけど、ふたりの意見に従う』なんて言えない。ごめんなさい。


 玲と祥子がいなくなったあと、身体が落ち着くまでさくらは待っていた。

 赤ちゃんを取り上げられてしまうという激情にのまれて、大騒ぎでも起こしたら、すぐに手術をはじめられてしまいそうな気配だったので、納得したふりをした。


 このまま病院にいたら、大切な赤ちゃんを取り上げられてしまう。いやだ。

 さくらは逃げようと決心した。廊下の灯りを頼りに、身の回りを確かめる。部屋に、鍵はかかっていない。


 正面玄関は閉まっていても、職員の通用口、あるいは救急窓口なら空いているだろう。

 類に連絡するのがいちばんだが、携帯電話や財布の入ったバッグは祥子が持って帰ってしまった。着ていた服も靴もない。さくらが逃げないよう、おそらく故意に。


 だが、目的地は同じ京都市内。

 西陣から、マンションのある烏丸御池(からすまおいけ)まで、歩けばいい。一時間、今の状態ならもう少しかかるかもしれないけれど、いつかは着くだろう。行ける。


 さくらは掛け布団の中に枕を詰め、まるで自分が寝ているかのように偽装したあと、病室を出てナースステーションの前を慎重に通過する。

 幸い、人が少なくて、しかも忙しそうに作業しており、さくらを見咎めてくる人はいなかった。


 履いているものが病院のスリッパなので、歩きづらいし、油断するとパタパタと大きな音が出てしまう。


 エレベーターには、監視カメラがついているので、階段で静かに下りる。手すりにつかまって。

 逃げ出したことを知られなくない。たとえ知られたとしても、なるべく遅く発見されたい。

 さくらは救急患者を搬送する出入り口から、脱出することに成功した。

 表通りに出てしまえば、たぶんしばらくはだいじょうぶ。



 少し、おなかが痛い。

 寝て休んだのがよかったのか、気分はだいぶ回復したけれど、下腹部がきりきりと痛む。まるで、赤ちゃんが無理に動き回ることをやめなさいと、さくらに警告しているようだった。妊娠している自覚は、まったくなかったのに。


 止まってはいられない。一歩でも前に。歯を食いしばって歩く。


 まずは、東へ。そのあと、南へ下がる。高い建物が少ない京都では、京都タワーを目標にすれば方向がつかみやすい。道も碁盤の目状なので、迷うことがない。


 十月の夜風は涼しいを通り越して、冷えているし、汗と涙もこぼれてきたけれど、雨でなくてほんとうに助かった。袖で顔を拭きつつ、おなかをさすりながら、さくらは進む。類の待つマンションを目指して。


 病院のパジャマを着ている上に、病院名の入ったスリッパを履いているせいか、歩いている人が不思議そうにさくらを見てくる。でも、気にしているひまはない。


「どんな反応、するかな。類くん」


 なるべく楽しいことを考える。

 赤ちゃんのことを告白したら、どんなふうに喜んでくれるだろうか。

 照れる? 驚く? 叫ぶ? 走る? それとも、きれいな顔を崩して泣く?

 抱き締めてくれて一緒に喜んでくれたら、それだけでうれしい。



 さくらはなるべく明るい大通りを選び、マンションへ帰ったが、エントランスに着くころには額から冷や汗を流していた。

 最後の力を振り絞ってインターホンを押すが、類の返事はない。仕事からまだ戻っていないのだろうか。


 さくらは、部屋の鍵も持っていなかった。


 マンションの住人のあとについて、しれっとオートロックまでは突破したものの、部屋のドアが開けられない。

 類は、すでに寝てしまっているのかもしれない。いつも忙しくて、まとまった睡眠時間が少ない類は、いったん深く眠ったら起きて来ない。


 ご近所の迷惑にならない程度に、玄関ドアを手で叩く。


「類くん、私。さくらだよ、いたら開けて」


 そっと声をかけてみるけれど、さっぱり返事はない。

 幸い、マンションの廊下は内廊下なので、外気に触れることはない。

 さくらは自宅ドア前にへたり込むように座り込んだ。ずっと歩いてきて、へとへとだった。いやな汗が流れてきた。

 しつこくインターホンを鳴らすが、返事がない。


 自分を、類をより深く結びつけるには、妊娠がもっとも効果的だというのに、類からの答えがない。早く教えたいのに。赤ちゃんができたって。



 苦しい。


 さくらはドア脇の壁にもたれかかり、目を閉じた。


 るいくん。私、ここで待っているよ……?







 ……どれぐらい、時間が過ぎたのだろう……





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