第35話 必ず守るから②

「あれ、ここ……」


 次に気がついたときには、病院のベッドの上だった。

 見慣れない天井。固いベッド。自分の匂いがしない布団。


「よかった。さくら、気がついたんやね」


 涙目の祥子。それに、ちょっと疲れた顔の玲。


「ここは」

「病院やで。さくら、倒れたんや。覚えてへんの」

「は、はい。恥ずかしながら。今、何時ですか?」

「八時半。面会時間も終了してはる。そろそろ、うちらも帰るさかい」

「さっき、類も来たんだけど、お前寝ていたから、さくらの顔を見ただけで、すぐに帰って行った。まだ、仕事中だったみたいで。明日も来るってさ」


 先ほど見た幻影は、現実だったらしい。


「入院に必要な道具はうちが用意したで。とりあえず一晩、ゆっくりせなあかん」

「私、どこか病気なんですか。悪いんですか」


 さくらは、もっとも大切なことを聞いた。


「病気ってゆうか、なあ玲」


 祥子と玲は意味ありげに顔を見合わせた。明らかに困っている。


「正直に話してくださったほうが、助かります。隠さないで。類くんには、どう説明したんですか?」

「あのな、さくらお前」

「ええわ。同性のうちが言う」


 玲のことばをさえぎって、祥子が口を切った。


「よく聞いておくれやす。さくらは、少し疲れがたまっとっただけで、どこも悪くあらへん。ここは、産婦人科の病棟や。鈍感なさくらにもすぐ分かるよう、はっきり言うたるわ」


 祥子は、大きく息を吸った。


「あんさん、妊娠しとるんや」


 産婦人科。妊娠。

 さくらの中で、そのことばがぐるぐると回る。まさか。まさかまさか、まさか。


「類くんの、赤ちゃん?」


「そやね、類との子やろね。もうだいぶ大きゅうなっとるって、お医者はんが言うとった。気がつかなかったん?」

「全然、分かりませんでした」

「体調、よくなかったんだろ」

「うん。でもまさか」


「今夜のところは、類はまだ仕事が残っとるゆう話さかい、婦人系の病気と言うて帰した。けど、いつまでも騙せるもんやあらへんえ」

「騙すもなにも。類くん、喜びます。私も」


「さくら。命にかかわる問題だ、軽く考えてはならない。今、お前が子どもを生んだって、苦労するのは目に見えている。さくらたちは、大学生じゃないか。東京の親も、類の仕事も困るだろう」

「そんなことないよ。子どもを通じて理解してもらえることもあるよ、きっと」


「楽観的だな、類のお気楽が伝染したか。つらいことを提案するようだが、今回は、類に黙って堕ろせ。さくらの身がもたない。残酷だが、諦めろ。今なら、類に知られずに動ける」

「うちも、玲の意見に賛成や。うち、前にも言うたけど、類は子どもを喜ぶと思う。けど、やっぱり世間が黙っておらへんやろ。婚約騒動で、スポンサーに相当な違約金を払ったんやってね。これ以上スキャンダルが続くと、類は破滅やで」


「子どものことは、公表しません。すぐに籍も入れなくていいし。将来、類くんと結婚できるそのときまで、我慢します」

「いきなり片親か。生まれる前から」

「でも、類くんと同居はできるだろうし、ひとりっていうわけじゃないし」


「さんざんお前が感じてきた『ひとり親』という孤独を、自分の子どもにも強いる、ということになるんだ。さくらには、しあわせになってほしい。もちろん類にも、いつか生まれて来る子どもにも」

「マスコミも、いつまでも放っておくわけあらへん。北澤ルイのスキャンダルなら、どこの社でも両手を挙げての大歓迎。大切な赤ちゃんが、隠し子扱いでええんか? かわいそうやん。さくら、耐えるんや。もう、赤ちゃんがだいぶ大きゅうなっとるゆう話さかい、手術は急ぎ、明日朝一番や」


 玲も祥子も、言っていることがおかしい。常識論ばかりで、さくらのことを見てくれていない。


「な……なにを、勝手に決めてくれているんですか。私の赤ちゃんですよ? 手術なんて絶対にしません」


 ちょうどそのとき、看護師が入室してきた。


「柴崎はん、起きはったん。書類のことやけど」

「お手数かけます」


 書類はさくらではなく、玲が受け取った。


「こことここにサイン、しておくれやす」

「はい」


「奥さん、同意したん?」

「ええ。今の家庭状況では、どうしたって苦しいので。俺の稼ぎが少ないばっかりに、病院へ連れてくるのも遅くなってしまって。かわいそうですが、今回は。親の同意も必要でしたよね、明日までには用意しておきます」

「……玲。なんの話? 家庭状況って、なに」


 さくらには話が見えてこない。


「赤ちゃんのお父はん、こちらの男性やて聞きましたさかい。苗字も同じ。若うおすけど、だんなさんやろ?」


 看護師は、きょとんとしている。


「玲が?」


 反論しかけたさくらを、玲がさえぎる。


「俺がさくらの相手です。間違いありません」

「うちも知っとる。ふたりが仲ようしとること」

「祥子さんまで! どうして嘘をつくんですか。赤ちゃんの父親は、類くんです。私は、類くんの婚約者です」

「類は、弟なんですよ。さくら、まだ相当動転しているようなので、よく言って聞かせおきます。書類、あとで出しに行きますね」


 にっこりと笑った玲は、看護師を追い出した。ドアが閉まるなり、さくらはかたわらに立っている祥子にしがみついた。


「どうして、玲が赤ちゃんの父親になっているんですか。祥子さんまで、そんな嘘を」

「……今、とっても微妙な立場におる、類の名誉のためや。未婚の大学生で孕ませて堕ろしたなんて世間に知られたら、いくらなんでも、一生の終わりやで、あの子。玲が、父親役を引き受けてくれたんや。そりゃ、うちとて心の中は複雑や。けど玲の、妹と弟を守りたいゆう姿勢に心打たれたわ」


「未練がましいようだが、俺はまださくらのことが好きだ。諦めきれていない。今この瞬間も、女として愛している。だから、お前が苦しむところは見たくない。さくらのためなら、なんだってしたい。それが、類のためにもなるなら」

「玲……」


 玲は、汚れ役を引き受けてくれたのだ。常に注目されている存在の類に被害がいかないように、嘘をついた。

 さくらのおなかの子の『父親』である自分は、高卒職人で低収入、さくらは成人前の大学生なので出産できない、ということにして、危機を回避しようとしている。


「さ、うちらはもうそろそろ帰る時間さかい、帰るで。よく寝なはれ。明日、朝一番で手術してくれはるさかい」


 祥子も表情が固い。自分の大切な誕生日に、玲がさくらに未練を残しているなんて知りたくなかったはずだ。


「明日も、付き添うよ。『妻を愛しているけれど、不甲斐ない低給ダンナ』を、最後まで演じてみせるから、安心してほしい」


 玲はやさしい。こんなときにまで、笑顔を向けてくれた。

 耐え切れずに、さくらは布団をかぶって泣いた。

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